HISTORICAL PERSON · 1990年没

トゥンク・アブドゥル・ラーマン

「マレーシア独立の父」と呼ばれる政治家。独立したマラヤ連邦の初代首相で、1963年のマレーシア成立時にも初代首相に就いた。

生涯
1990年没
死亡地
マレーシア(ペナン州)
出生地
マレーシア(アロースター)
出典
世界地図
マレーシア(ペナン州)

伝記

トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、1903年2月8日、クダ州の州都アロースターで、同州のスルタン、アブドゥル・ハミド・ハリム・シャーの多数の子の一人として生まれた「マレーシア独立の父」である。母チェ・ムナラーはタイ系で、スルタンの6番目の妃だった。当時のクダは、コレラやマラリアの流行に苦しめられ、兄弟の何人かが病に倒れた。彼自身も、1920年にイギリスへ出発するまで、マラリアに何度もかかった。初等教育はアロースターのマレー語学校で受け、のちに英語学校のスルタン・アブドゥル・ハミド・カレッジで学んだ。8歳のころ、兄弟たちとバンコクへ留学し、1915年にマラヤに帰国して、ペナンの学校で学びを続けた。17歳のとき、クダ州政府の奨学金を得て、イギリスの高等教育へ向かった。

はじめは勉強に苦労したが、後見人の手配でケンブリッジの個人教師のもとで入学試験の準備をし、高い点を取って合格した。ケンブリッジ大学のセント・キャサリンズ・カレッジで法学と歴史を学び、1925年に学士号を取った。マラヤを出発して5年後、23歳で帰国したが、クダの摂政だった兄のトゥンク・イブラヒムは、彼の専攻に不満で、イギリスの法廷弁護士の資格を得るため、再び渡英するよう命じた。この間、英国マレー協会の創設を助け、名誉書記となった。1931年1月にクダ州の公務員の見習いに任命され、クリム郡の郡長補佐を経て、パダン・テラップの郡長に昇進した。住民の9割を占める農民の問題を知るため、郡内をよく巡った。第二次世界大戦の勃発により、1938年にイギリスから帰国した。1947年から再び留学して、弁護士の資格を得た。1949年に帰国してから、アロースターの法律事務所で働き、のちクアラルンプールへ異動した。

当時のマラヤ全域では、ナショナリズムが高揚しており、統一マレー国民組織はダト・オンが指導していた。彼はこの組織に参加し、1951年に党首の座についた。翌1952年には、華人協会、インド人会議と連合党を結成した。1954年にロンドンへ独立のための使節団を派遣したが、実らなかった。1955年の総選挙で、連合党は52議席中51議席を得る圧勝を収めた。同年後半に、再び使節団を派遣し、1957年8月31日をマラヤ連邦の独立の日とすることが決まった。独立記念日には、クアラルンプールに掲げられていたイギリス国旗が降ろされ、ラーマンは自由を叫ぶ群衆を率いた。手を挙げる彼の写真と、群衆の歓声を呼ぶ決意を込めた声の記録は、マラヤ独立の象徴となった。初代首相に就き、1958年5月には国賓として夫人とともに来日した。

1963年にマラヤ連邦、サバ、サラワク、シンガポールが統合してマレーシアが生まれると、初代首相を務めた。しかし民族間の対立が、シンガポールの参加で明らかになった。マレー人が全人口の約6割を占めるマレーシアに対して、シンガポールの人口は、大多数が華人系だった。1965年にシンガポールを追放した。1967年には、タイ、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシアの5か国による東南アジア諸国連合の結成を実現させた。1969年の総選挙で連合党が議席を大きく減らし、直後の5月13日事件を契機に、次世代の指導者層から非難された。1970年、アブドゥル・ラザクに首相の座を譲った。サッカーの愛好家で、1958年から1977年までアジアサッカー連盟の会長を務めた。1990年12月6日に87歳で亡くなった。

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