伝記
尹潽善は、1897年8月26日、李氏朝鮮時代の忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)屯浦面新項里で、父の尹致昭と母の李範淑の子として生まれた、大韓民国の第4代大統領である。号は海葦という。1903年に漢城府(現在のソウル)の普通学校に入学し、1907年に卒業した。1910年4月に京城の小学校の5年生に編入した。キリスト教青年会に出入りしたとき、幹事として活動していた李承晩や、同会を主導していた李商在と親交を築いた。小学校を卒業して、1913年に慶應義塾の医学部に入学したが、2学期で辞め、再び正則英語学校に入学したが、2年に満たず中退した。
1917年に上海へ渡り、申圭植の家に留まった。1919年には、三・一運動の直後に設立された「大韓民国臨時政府」の設立に携わり、議政院議員に選出された。1921年6月に上海を離れてイギリスに留学し、いくつかの学校を経てオックスフォード大学で学び、1930年にエディンバラ大学で文学修士号を得た。1932年に朝鮮に帰国して、その後は蟄居生活を続けた。日本の敗戦後の1945年9月1日に、保守系の人士を結集して、韓国国民党を結成した。10月にアメリカ軍政庁の農商局上級顧問となり、1947年に経営難の新聞社を買収して社長となり、李承晩の宣伝を行った。1948年12月に第2代ソウル市長に任命され、1949年6月には商工部長官となったが、1950年5月に李承晩大統領との対立で解任された。1949年から翌年にかけては、大韓サッカー協会の会長を務めた。1950年11月に、大韓民国赤十字社の初代総裁に就任した。
1954年5月、第三代国会議員選挙にソウルの鍾路甲区から出馬して当選し、李承晩の長期執権を可能にした「四捨五入改憲」に反対した。1955年に民主党が結成されると、初代の議員部長となり、1959年には最高委員となった。1960年に民主党最高委員として、3・15不正選挙の真相調査団長を務め、李承晩政権を批判した。四月革命で李承晩政府が崩壊すると、与党となった民主党は、内閣制下での大統領と首相の席をめぐり、新派と旧派の間で深刻に対立した。同年7月の第五代国会議員選挙で3選され、8月12日に両院の合同会議で大統領に選ばれた。旧派の指導者だった彼は、新派の張勉を首相に指名したが、組閣と国政運営では派閥の対立が深く、多くの混乱を招いた。翌1961年5月16日に軍事クーデターが発生し、クーデター軍からの要請もあって大統領の座に留まったが、翌年3月に、軍政が制定した政治活動浄化法に抗議して下野した。大統領就任直後に、李承晩の官邸だった景武台を「青瓦台」に改称した。
下野後は野党の政治家として、1963年10月の大統領選挙で朴正熙に僅差で敗れ、1967年の大統領選挙でも、大差をつけられて敗北した。1976年3月1日に、金大中らとともに「3・1民主救国宣言」を発表した。1979年には偽装結婚式事件にも参加した。1980年のソウルの春には、金泳三と金大中を自宅に呼び、候補の一本化を斡旋したが、失敗し、以後は事実上、政界を引退した。1990年7月18日に死去した。
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