伝記
レフ・イワノヴィッチ・ヤシンは、1929年10月22日、モスクワ東区の錠前屋の家庭に生まれたソ連のサッカー選手で、ポジションはゴールキーパーである。叔母の一家と同居する大きな家族で育ち、春から秋は家の中庭で友人たちと暗くなるまでサッカーに熱中し、冬は庭でスケートをした。6歳のときに母アンナが結核で亡くなり、11歳のときには戦争の影響で、父イヴァンと軍用機の部品工場で働いた。少年のころから体が大きく、友人たちに「エッフェル塔」と呼ばれた。さまざまなスポーツを経験したが、なかでもアイスホッケーのゴールキーパーとしての資質は群を抜いていたという。
1944年に戦争による中断が解けて、サッカーの試合が再開されると、工場のチームの入団テストを受けた。当初はストライカーを切望していたが、背が高く跳躍力があったため、チームのボスにゴールキーパーを割り当てられた。1947年に兵役でモスクワに配属され、軍のスポーツ組織ディナモに入団した。アイスホッケーのコーチの目に留まり、ホッケークラブのユースにもスカウトされたが、「アイスホッケーのゴールは狭すぎる」と思い、サッカーへの思いを強めた。1949年にディナモ・モスクワに入団し、1954年まで、アイスホッケーとの二足のわらじを履いた。1951年にトップチームで初出場を果たしたが、デビュー戦は2失点で敗れ、ホミッチの控えという状況が続いた。1953年にホミッチの怪我をきっかけに、正ゴールキーパーに定着した。
翌1954年にソ連代表に初めて招集され、9月8日のスウェーデン戦で代表デビューした。1955年8月に当時の世界王者の西ドイツとの一戦で好プレーを連発し、3対2の勝利に貢献して、世界に名を知られた。1956年のメルボルン五輪で金メダルを獲得し、これは、ソ連代表が獲得した初の国際タイトルだった。1958年のスウェーデン大会では、ブラジル戦で12回のファインセーブを見せ、当時17歳だったペレは、後年「彼からゴールを奪うのは不可能だと思い、気が滅入ってしまった」と述懐した。1960年に第1回欧州選手権で優勝し、ベストイレブンにも選ばれた。1962年のチリ大会では、準々決勝敗退の責任を国内で背負わされ、一時真剣に引退を考えた。1963年にはウェンブリーのイングランド協会の100周年記念試合に世界選抜として招かれ、前半45分を無失点に抑え、同年12月にバロンドールを受賞した。ゴールキーパーでは唯一の受賞者である。
非常に長い腕と足を持ち、黒いユニフォームと黒いグローブを着けていたことから、「黒蜘蛛」または「黒豹」と呼ばれた。必要なときには積極的にペナルティーエリアの外にも飛び出すプレーは、当時のゴールキーパーに見られない特長で、「スイーパー・キーパー」の先駆者として評される。キャップを脱いでヘディングで処理する姿は、毎回歓声が上がり、本人はこのキャップを「お守りだ」と語った。ディナモ・モスクワでは326試合に出場し、160試合でクリーンシートを達成した。ソ連代表としては78試合に出て、70失点だった。1970年に現役引退を表明し、1971年5月の引退試合には10万人が集まった。報酬のほとんどを孤児のために寄付した。1984年に血栓性静脈炎で左足を切断した。1990年3月18日、ソ連のスポーツ界で初めて社会主義労働英雄を受勲し、同月20日、胃癌のため亡くなり、国葬が行われた。
同じ年に亡くなった人物
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