伝記
レナード・バーンスタインは、1918年8月25日、マサチューセッツ州ローレンスに、ウクライナ系ユダヤ人移民の二世として生まれた指揮者、作曲家である。ピアニストとしても知られる。愛称はレニー。生まれたときの名はルイスで、のちにレナードと改名した。父サミュエルは敬虔なユダヤ教徒で、理髪店を経営していた。家に音楽的な環境はなかったが、母ジェニーの蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。父の強い反対を押し切って、プロの音楽家を志した。ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学とカーティス音楽院で学んだ。指揮者を志したのは、ディミトリ・ミトロプーロスの刺激による。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに、作曲ではウォルター・ピストンに、ピアノではイサベラ・ヴェンゲーロワに師事した。ライナーの指導を、専制的だったが、要求の高さは自分に求める以上ではなかったと振り返っている。
カーティス音楽院を卒業したあと、しばらく仕事を得られなかったが、1943年夏、アルトゥール・ロジンスキの指名により、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任した。1943年11月14日、病気で指揮できなくなったブルーノ・ワルターの代役として、同楽団を指揮した。この日の演奏会はラジオでも放送されており、一大センセーションを巻き起こした。1958年には、アメリカ生まれの指揮者として史上初めて、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任した。この組み合わせは大成功を収め、同楽団の黄金時代をもたらした。作る音楽の魅力に加えて、気さくでおおらかな性格と、情熱的な指揮ぶりで、ファンを魅了した。興に乗ると指揮台の上でジャンプすることもあった。CBSレコードとの契約では、録音曲目の決定をほぼ彼に任された。
1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任すると、特定のポストには就かず、ウィーン・フィルやイスラエル・フィルなどに客演した。同じユダヤ系の作曲家マーラーの交響曲は、「自分で書いたような気がしてくる」と言うほどで、数々の演奏を残した。テレビ放送で、クラシックやジャズの啓蒙的な解説を行うなど、教育者としても業績を残し、小澤征爾、佐渡裕、大植英次など、多くの弟子を世に送り出した。小澤は、作曲家としても天才だが、人間としての才能も凄く、教え方も上手だったと絶賛している。1985年8月には広島を訪れ、被爆40周年を悼む「広島平和コンサート」を開いた。1989年のクリスマスには、ベルリンの壁の崩壊を受けて、ベルリンで東西ドイツ、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスの各楽団の混成メンバーを指揮し、ベートーヴェンの交響曲第9番の「歓喜」の歌詞を「自由」に替えて演奏した。東西冷戦の終結を象徴する演奏会として、記憶されることになった。
ヘビースモーカーとしても有名で、14歳のときに煙草を覚え、1日に100本吸い、ウイスキーを1本飲むのが日課だったという話もある。1990年6月には、札幌で自ら創設した国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバルを始め、後進の育成にも力を入れようとしたが、すでに病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭での演奏が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明した。それから5日後の10月14日、肺癌のため、ニューヨーク市内の自宅で亡くなった。生涯に7度来日している。カラヤンとはライバルと見られたが、本人は確執を完全に否定し、カラヤンの死を知ると、パリの演奏会で2分間の黙祷を捧げた。
同じ年に亡くなった人物
- 東久邇宮稔彦王 (1990年没)
- ヘルベルト・ヴェーナー (1990年没)
- ロッテ・ヤコビ (1990年没)
- マグダ・ユーリン (1990年没)
- ジョン・ホークス (テニス選手) (1990年没)
同じ地域に関係する人物
- デイヴィッド・リースマン (2002年没)
- ジェイムズ・フェニモア・クーパー (1851年没)
- エセル・マーマン (1984年没)
- コーネリアス・ヴァンダービルト (1877年没)
- メル・ルイス (1990年没)