HISTORICAL PERSON · 1990年没

ブルーノ・クライスキー

オーストリアの政治家。初のユダヤ人首相として1970年から1983年まで政権を担い、社会党党首も務めた。ナチスの併合でスウェーデンへ亡命した経歴を持つ。

生涯
1990年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

ブルーノ・クライスキーは、1911年1月22日に生まれ、1990年7月29日にウィーンで没したオーストリアの政治家である。社会民主主義の政治家で、1959年から1966年まで外務大臣を務め、1970年から1983年まで首相を務めた。初のユダヤ人のオーストリア首相でもあり、在任の13年間は、共和国時代のオーストリアで最も長い。

祖父の代にモラヴィアから移住した一家の息子として、ウィーンのマルガレーテン区に生まれた。父マックスは繊維の製造業者、母はイレーネである。1920年代のオーストリアの貧困と暴力に衝撃を受け、15歳で社会党の青年組織に加わった。1929年にウィーン大学で法律を学び始めたが、これは、医学を志していた彼に、法律を勧めた指導者オットー・バウアーの助言による。1931年にユダヤ教の共同体を離れた。1934年の2月事件のあと、ドルフースの独裁政治で社会民主労働党が禁止されると、非合法の反ファシスト活動に加わり、1935年1月に逮捕され、1936年6月に釈放された。1938年3月にドイツがオーストリアを併合すると、9月にスウェーデンへ亡命し、1945年まで同地で暮らした。ストックホルムの協同組合に勤め、社会福祉と中立外交を学んだ。ドイツから逃れてきたヴィリー・ブラントと知り合い、のちに二人は、ほぼ同じ時期に、ドイツ語圏で社会民主主義の政権を担うことになった。1942年4月に、ヴェラ・フースと結婚し、息子と娘がいる。

1946年5月に帰国したが、すぐにストックホルムの公使館員に任命され、北欧諸国との関係の改善に努めた。帰国後、テオドール・ケルナー大統領から首席補佐官および政治顧問に任命された。1953年に外務次官となり、1955年の条約の調印に参加し、戦勝4か国による占領が終わって、オーストリアは永世中立国として独立を回復した。1956年に国民議会議員に選出され、党中央指導部の主要メンバーとなった。外務大臣としては、欧州自由貿易連合の結成に指導的な役割を果たし、南チロル問題の解決を支援し、第三世界の国々のための「マーシャル・プラン」を提案した。

1966年に国民党が絶対多数を得ると、辞任し、1967年2月に社会党の党首に選ばれた。1970年の選挙で社会党が議席を伸ばし、首相に就任した。1971年10月の総選挙で、社会党は絶対多数を得て、1975年と1979年の選挙でも勝利した。首相としては、親しい法務大臣とともに、保守的なカトリックの伝統を持つ国で、自由主義的な改革を進め、家族法と刑務所を改め、中絶と同性愛を合法化した。兵役を9か月から6か月に短縮し、週労働時間を40時間まで減らして、女性の機会均等に関する法律も可決された。1974年の石油危機のあと原子力開発を承認したが、1978年の国民投票で廃案となった。外交では、南北の対話を促し、ブラントやパルメとともに平和と開発を推し進めた。ウィーンは米ソの戦略兵器の制限交渉の初期の舞台となった。ユダヤ人問題の解決策としてのシオニズムには反対し、アラブの指導者たちと友好関係を築いたが、多くのユダヤ人やイスラエル人は、彼を反逆者と見なした。

1983年4月の選挙で社会党が絶対多数を失うと、少数派内閣の組閣を断り、教育大臣のフレート・ジノヴァツを後継者に指名して辞職した。健康を害し、1984年に緊急の腎臓移植を受けた。晩年は社会党の名誉会長として、ときに党への苦言を述べ、1990年7月にウィーンで死去した。

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