HISTORICAL PERSON · 1990年没

グレタ・ガルボ

スウェーデン生まれのハリウッド女優。サイレントから初期トーキーの伝説的スターで、『肉体と悪魔』で国際的な地位を築き、1954年にアカデミー名誉賞を贈られた。

生涯
1990年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
スウェーデン王国(Katarina church parish)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

グレタ・ガルボは、1905年9月18日に生まれ、1990年4月15日に没したスウェーデン生まれのハリウッド映画女優である。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン。サイレント映画の時代から、トーキー初期にかけての伝説的スターで、3度のアカデミー主演女優賞のノミネートを受け、1954年には「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られた。アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選んだ映画スターベスト100の女優部門では、第5位だった。

ストックホルムの下町に、三人兄妹の末子として生まれた。父カール・アルフレートは肉体労働者で、さまざまな職を転々とし、母アンナは主婦だったが、のちにジャム工場で働いた。一家は、当時ストックホルムで最も貧しい人々が住んでいた街の、給湯設備のない3室のアパートで暮らした。幼いころは内気で夢見がちで、学校が嫌いで、一人遊びを好んだが、豊かな想像力と天性の指導力もあり、ごっこ遊びに友達を巻き込んで、女優になる夢を膨らませた。13歳で初等学校を卒業し、上の学校へは進まなかった。のちに、初等教育しか受けていないことが劣等感になっていたと振り返っている。1919年の冬にスペイン風邪が流行して、父も罹患して職を失い、14歳だった1920年に亡くなった。

学校を卒業すると、理髪店で髭剃り係として働き、友人の薦めでデパートの使い走りに応募して、婦人帽子売り場に配属された。やがてカタログの帽子のモデルを務めるようになり、1920年12月12日に公開された宣伝用の短編フィルムに、初めて出演した。1922年に短編コメディに出演し、1922年から1924年までストックホルムの学校で学んだ。1924年に監督マウリッツ・スティッレルに見出され、ノーベル文学賞作家セルマ・ラーゲルレーヴの小説を原作とする『イエスタ・ベルリングの伝説』のヒロインに抜擢された。この作品での演技が、MGMのルイス・B・メイヤーに認められ、スティッレルとともに契約して、1925年6月30日にアメリカへ出発した。

ニューヨークに着いた二人は、英語が話せず、3か月ものあいだMGMから連絡がなかった。その間に会社は、ガルボの歯列矯正と減量の手配を進めていたのである。アメリカでの第一作『イバニエスの激流』(1926年)で、妖婦の役に抜擢され、演技は概ね好評だった。第3作の『肉体と悪魔』(1926年)で、ジョン・ギルバートと共演し、国際的な映画女優としての地位を築いた。二人の親密さは私生活でも続き、撮影が終わるころには同棲を始めた。人気は急速に高まり、その後に主演した8本のサイレント映画は、すべてヒットした。1930年の『アンナ・クリスティ』は、初のトーキー映画で、会社は「ガルボが話す!」と宣伝した。ガルボは、同じ年の『ロマンス』と合わせて、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。1932年には、契約内容を主導し、出演作品を自ら選ぶことが増えた。代表作として、1936年の『椿姫』の高級娼婦マルグリットを挙げる評論家が多い。1939年のコメディ『ニノチカ』で3度目のノミネートを受け、1941年の『奥様は顔が二つ』を最後に、35歳で映画界から引退した。その後も多くの出演依頼があったが、復帰することはなく、公の場に姿を見せることもなく、隠棲生活のうちに世を去った。

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