伝記
カーダール・ヤーノシュは、1912年5月26日、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったフィウーメ(現在のクロアチアのリエカ)で生まれた、社会主義時代のハンガリーの政治家である。ジョバンニというイタリア風の名は、出生地の法律によるものだった。6歳までは里親のもとで暮らし、その後母と再会し、14歳まで学校に通った。父は父権を拒み、母ボルバーラを援助することも拒否した。やがてタイプライターの整備工として奉公に出て、17歳で労働組合の若手グループに参加し、1931年に非合法のハンガリー共産党に入党した。その後、不法な政治活動のため数回逮捕され、1933年には2年の実刑判決を受けた。
第二次世界大戦末期にソ連軍に占領され、その圧力で社会主義政権が成立した。1946年に共産党の副書記長に選ばれ、1949年にはライク・ラースローの後任として内相になった。ライクは、共産党指導者ラーコシ・マーチャーシュによって外相にされたが、見せ物裁判の被告にされ、チトーと共謀したとして処刑された。カーダールは、自分自身を見せ物裁判に巻き込むために内相に任命されたとも伝えられる。一年後には、冤罪で見せ物裁判の生贄となり、終身刑を宣告された。1953年にナジ・イムレが首相になり、スターリンが死去した後の1954年に、釈放された。重工業の盛んなブダペストの第13地区で党書記を務め、労働組合に更なる自由を求める労働者の広い支持を得て、すぐに有名になった。
1956年のハンガリー動乱では、党がハンガリー社会主義労働者党として再編されると、書記長に選ばれた。国務大臣としてナジ政府の一員でもあった。11月1日、ブダペストのソ連大使館に連れ去られ、モスクワでソ連の指導者たちに会った。そこで、ハンガリーの「反革命」を終結させなければならないと説得された。最初は圧力に抵抗し、ナジ政府は社会主義体制の廃止を企てていないと主張した。だが、ソ連軍が革命を弾圧する決定はすでに下されていると知らされ、屈した。11月4日の夜明けにソ連の戦車がブダペストへ向かい、同日、カーダールを長とする「臨時労農革命政府」の樹立が宣言された。ナジはユーゴスラビア大使館に逃れたが、カーダールは安全な帰還を約束したのに、果たされなかった。ナジらは1958年6月16日に処刑された。
首相(閣僚評議会議長)を、1956年から58年と、1961年から65年の2期務めた。ソ連の影響は強かったが、集団農場の農民に比較的大きな私有地を許し、政治犯を釈放し、ローマ教皇庁との和解を進め、秘密警察を復活させないなど、東側の中では比較的穏健な統治を行った。1966年には「新経済メカニズム」を導入して市場経済の一部を取り入れ、国民の所得も増えた。1968年のチェコスロバキア侵入には最後まで反対し、ドプチェクと会談して介入の回避に努めたが、ブレジネフに説得されて応じざるを得なかった。1978年には、「ハンガリー国王の聖冠」がアメリカから返還された。1980年代後半に経済が悪化し、保守化して改革に否定的になると、1987年の増税法案が議会で否決され、信頼を失った。1988年5月の党大会で書記長を辞任し、1989年5月に党総裁の職も解かれた。その後まもなく、1989年7月6日に、77歳で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョック・マホニー (1989年没)
- アンソニー・クエイル (1989年没)
- ペレス・プラード (1989年没)
- ブルース・チャトウィン (1989年没)
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- サボー・ラースロー (チェスプレイヤー) (1998年没)