伝記
ミケランジェロ・ブオナローティは、1475年3月6日、フィレンツェ共和国のカプレーゼ(現在のトスカーナ州アレッツォ近郊)に生まれた。一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいたが、父ルドヴィーコは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた。誕生の数か月後に一家はフィレンツェへ戻ったが、6歳のときに母が長い闘病の末に亡くなった。当時の一家は石工の一家とともにセッティニャーノに住み、父は大理石の採石場と小さな農園を経営していた。父は学問を学ばせようと人文主義者のもとへ送ったが、本人は学問に興味を示さず、教会の装飾画の模写や画家たちとの交際を好んだ。
13歳で画家ギルランダイオに弟子入りし、14歳で一人前の画家と認められたが、これは当時として極めて異例のことだった。1489年、フィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチが最も優れた弟子を2名求め、そのひとりとして派遣された。1490年から1492年にかけてはメディチ家のプラトン・アカデミーに参加し、フィチーノやポリツィアーノら一流の人文主義者や詩人と交流した。この時期のレリーフ『ケンタウロスの戦い』は、ポリツィアーノが語ったギリシア神話の逸話をもとに、ロレンツォの依頼で制作された。17歳のころには、ロレンツォの後援で彫刻を学んでいた3歳年長の者に顔を殴られて鼻骨が曲がり、現存する肖像画の多くにその特徴が捉えられている。1492年にロレンツォが死ぬとメディチ家の庇護を離れ、1493年から翌年にかけては、ヘラクレスの大きな立像のために大理石を買っている。1494年、メディチ家がフランス軍の侵攻とサヴォナローラらの扇動でフィレンツェから追放される直前に街を離れ、ヴェネツィアを経てボローニャに移った。
フィレンツェに戻ったが、政府からの注文はなく、メディチ家傍流の庇護に頼らざるを得なかった。メディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの求めで作った『キューピッド』は、古代の発掘品のように加工してローマへ送れば高値で売れると考えられていた、と16世紀の伝記に記される。『幼児洗礼者ヨハネ』を買った枢機卿は偽物と気づいたが、出来栄えに感銘を受け、彼をローマへ招いた。1496年6月25日、21歳でローマに到着した。1497年11月にはフランス大使から『ピエタ』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を結んだ。完成した『ピエタ』は当時、彫刻の限界を超えたと評され、ヴァザーリも奇跡というほかない作品と称えた。
サヴォナローラが1498年に処刑されると、ミケランジェロは1499年から1501年にかけてフィレンツェへ帰還した。羊毛ギルドから、40年前に着手されながら放棄されていた彫刻の完成を求められ、フィレンツェの自主性の象徴となる壮大なダビデ像を制作し、1504年に完成させた。この作品が彫刻家としての評価を決定づけた。1505年には新教皇ユリウス2世に呼び戻されて霊廟の制作を命じられたが、後継の教皇らからも多くの注文が続き、霊廟の完成には40年を要した。ミケランジェロ自身は絵画を軽視していたが、システィーナ礼拝堂の天井画と祭壇壁画『最後の審判』は西洋美術に大きな影響を与えた。74歳のときにはサンガッロの死去を受け、改築中のサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、設計を変更した。主ドームは没後に別の設計に変更されて完成している。1564年2月18日に世を去った。存命中に伝記が出版された最初の西洋美術家であり、「神から愛された男」とも呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ベルナルディーノ・オキーノ (1564年)
- フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ (1564年)
- ザビーナ・フォン・バイエルン (1564年没)
- マトラクチュ・ナスーフ (1564年)
- ジョヴァンニ・ダ・ウーディネ (1564年没)
同じ地域に関係する人物
- フィオレンツォ・アンジェリーニ (2014年没)
- Maximiliano Gutierrez (1640年没)
- Pietro Sforza Pallavicino (1667年没)
- ホノリウス2世 (ローマ教皇) (1130年没)
- マルク・アントワーヌ・ミュレ (1585年没)