伝記
ジャン・カルヴァンは、1509年7月10日、フランス北部ピカルディ地方のノワイヨンに法律家の子として生まれた。1523年、14歳でパリ大学に留学して哲学と神学を学び、その後は法学を修めてブルージュ大学を卒業し、人文主義的な教養を身につけた。ローマの哲学者セネカの『寛容について』を翻訳して1532年にパリで刊行し、1533年ごろには突然の回心を経験したという。1534年にパリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼルへ亡命した。
1536年3月、26歳のときにバーゼルでラテン語の『キリスト教綱要』の初版を刊行した。この本は広く読まれ、著者の名を世に知らしめた。カルヴァンは名高い論争家で、論敵との議論の必要から綱要は5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は初版の数倍の分量になった。1541年にはフランス語版も刊行されている。同じ年、旅行中にたまたま滞在したスイスのジュネーヴで、牧師ファレルの要請を受けて市の宗教改革に協力することになった。しかし1538年、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらとともに追放され、約半年をバーゼルで過ごしたのち、ストラスブールに3年間滞在した。
1541年には市民の懇請を受けてジュネーヴに戻り、以後30年近くにわたり、神権政治によって同市の教会改革を強力に指導した。市民の日常生活にも厳しい規律と戒規を求めたとされる。1553年には、三位一体説を否定した神学者ミシェル・セルヴェが、カルヴァンの手の者によって異端者として告発され、ジュネーヴ市当局によって火刑に処された。処刑に先立ち、カルヴァン側は同盟諸都市にセルヴェの処遇を尋ねていたが、集まった意見は厳重な処置に賛成しつつも、死刑を勧めるものは一つもなかった。カルヴァン自身は後の著作で火刑は本意ではなかったと説明したが、生前のセルヴェについて、ジュネーヴに来たら生きて去らせないと周囲に語っていたという。この事件は反カトリック陣営からも非難され、宗教的不寛容だとして生涯最大の汚点とみる論者もいる。1555年にはカルヴァン派の市長が4人となった。1564年5月27日に死去した。
その神学で強調されるのは、神の絶対性、聖書の権威、神意による人生の予定、長老による教会政治、信者の訓練などである。予定の項目が現れるのは『キリスト教綱要』の第3版からで、予定の教義は後継者によって発展し、1647年のウェストミンスター信仰告白によって現在見られる形にまとまった。また、職業は神から与えられたものだと考え、得られた富の蓄財を認めた。改革派教会はその思想的な流れを汲む教会であり、神学校として1559年にジュネーヴ大学も創設した。ただし、改革派的な教義や長老主義の教会政治は、カルヴァン個人に始まるものではないとも言われる。
没後の1667年には、著作全集がアムステルダムで刊行された。綱要のほかにも旧約・新約の聖書注解や多くの説教集を残している。20世紀に入ると、カール・バルトが二重予定説を強く批判し、改革派神学者たち自身も予定論の再検討へと動いた。社会学や歴史学の文脈では、カルヴァン主義が予定論者とほぼ同義に使われることがあり、マックス・ヴェーバーの著作がその例に挙げられるが、その場合の意味はカルヴァン本人の信仰理解と必ずしも一致しない。ジュネーヴの近くの、セルヴェが火刑に処された教会には、長老派教会が建てた贖罪の碑があり、1903年の日付とともに、当時の誤謬を非難し良心の自由に立つとの銘文が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- ガスパル・コレア (1564年(推定))
- ザビーナ・フォン・バイエルン (1564年没)
- ドメニコ・カンパニョーラ (1564年没)
- エレオノール・ド・ロワイエ (1564年没)
- プランダラ・ダーサ (1564年)
同じ地域に関係する人物
- カルロ・ポンティ (2007年没)
- フリオ・アルバレス・デル・バイヨ (1975年没)
- Shyamji Krishna Varma (1930年没)
- Pierre Jaccoud (1996年没)
- ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ (1993年没)