HISTORICAL PERSON · 245年没

陸遜

山越討伐で頭角を現した呉の武将・政治家。呂蒙の後任として関羽討伐に加わって荊州を攻略し、夷陵の戦いでは大都督として劉備軍と対峙した。軍政の重臣となったが、晩年は二宮事件で孫権と対立した。

生涯
245年没
死亡地
—
出生地
中華民国(江蘇省 / 呉県)
出典
世界地図
中華民国(江蘇省)

伝記

陸遜は、後漢末期から三国時代の呉の武将・政治家である。もとの名は議、字は伯言、諡は昭侯。揚州呉郡呉県の出身で、呉の四姓と呼ばれる有力豪族の陸氏の傍系に生まれた。子に陸延・陸抗がいて、孫に陸機・陸雲らがいる。父の陸駿は九江郡の都尉にまでなって亡くなり、幼かった陸遜は従祖父で廬江太守の陸康を頼った。194年、陸康が袁術と対立して孫策の攻撃を受けると、陸康の幼い末子の陸績を託されて呉県に避難させ、数歳年長の後見人として家政を握った。

203年、21歳で孫権に仕え、はじめは幕府の秘書官を務めたのち、海昌県の屯田都尉として統治も兼ねた。干ばつに苦しむ民のために倉庫を開いて穀物を配り、農業と養蚕を勧めたため、人々から「神君」と呼ばれて信頼された。やがて山越の討伐で頭角を現し、潘臨を平定して2000人を自らの部曲に加え、216年には賀斉とともに鄱陽の尤突らの反乱を鎮めて定威校尉となった。孫権はこれを気に入り、孫策の娘を嫁がせている。217年には、丹陽で曹操の扇動により蜂起した費桟を、寡兵ながら夜襲で破った。3郡で募兵して精兵数万人を得て、治安を強めた。

219年、荊州で関羽と対峙していた呂蒙が病で建業に戻る際、陸遜は関羽を倒して荊州を取る謀をすすめた。呂蒙が後任に陸遜を推すと、孫権は陸遜を偏将軍・右部督に任じた。陸遜は謙った手紙で関羽の軍功をたたえて油断させ、作戦を孫権に報告した。呂蒙とともに公安と南郡を降し、宜都太守の職務を行って撫辺将軍・華亭侯となり、まもなく右護軍・鎮西将軍・婁侯に進んだ。呉に新たに服属した荊州の人々が能力に応じた場を得られないでいるのを見て、その不満を除くよう孫権に上奏し、聞き入れられている。

222年、劉備が関羽の復讐と荊州の奪還のために侵攻すると、陸遜は大都督として全軍の指揮を執り、朱然・潘璋・韓当・孫桓ら5万の軍を率いた。諸将は宿将や宗室の者が多く、陸遜を臆病者とあざけったが、陸遜は剣に手をかけて軍令を守らせた。孫桓が夷道で包囲されても救援に赴かず、孫桓に恨まれたという。劉備の挑発や伏兵に応じず、軍の疲れを見て取ると、火攻めなどで反撃して退路を断ち、蜀軍を壊滅させて劉備を白帝城へ敗走させた(夷陵の戦い)。このとき初めて諸将は陸遜を信頼した。孫権は輔国将軍を加え、荊州牧・江陵侯とした。その後、曹丕が3方面から攻めてくると、劉備からの援軍の申し出を、蜀軍は疲れているとして断っている。

孫権が諸葛亮に手紙を送るときは常に陸遜を通し、孫権は自らの印璽を預けて、蜀への外交文書を陸遜が添削してから発行させた。228年には、周魴の偽りの降伏で誘い出された曹休を石亭で迎え撃つ大都督となった。呉で仮黄鉞を与えられたのは陸遜だけとされる。朱桓・全琮に左右を任せ、自らは中央軍を率いて曹休を大破し、1万余の兵を斬り捕らえた。229年に孫権が皇帝となると上大将軍・右都護となり、武昌で太子孫登の後見役を務め、皇子たちの教育にもあたった。刑罰より礼を重んじ、厳罰化を戒めた。東方の島への出兵や遼東への親征には反対し、親征は孫権が取りやめたが、島への出兵は聞き入れられず、成果は得られなかった。234年には諸葛瑾とともに襄陽を攻め、使者が敵に捕らえられて動揺する諸葛瑾に、冷静に撤退策を示した。撤退の途上で江夏の新市・安陸・石陽を急襲し、捕虜をねぎらったため、魏の官民から呉に帰属する者も多く出た。晩年は二宮事件に巻き込まれて孫権と対立し、245年に没した。

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