HISTORICAL PERSON · 1988年没

ゲオルギー・マレンコフ

ソビエト連邦の政治家。スターリンの側近で、その死後の1953年から1955年まで閣僚会議議長(首相)を務めた。

生涯
1988年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(オレンブルク)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフは、1902年1月13日(ユリウス暦では1月8日)に、ロシア帝国のオレンブルクで、スラヴ系マケドニア人の移民のもとに生まれた、ソビエト連邦の政治家である。父はオレンブルクの裕福な農家で、若いころは父の農作物の販売の仕事を手伝った。母は鍛冶屋の娘で、正教会の司祭の孫娘であった。1919年にギムナジウムを卒業して、赤軍に志願兵として加わり、ロシア内戦では東部戦線とトルキスタン戦線で政治将校として白軍と対峙した。1920年4月に共産党に入党し、軍を本拠とするモスクワの高等専門学校の共産党書記として、トロツキストへの粛清を指揮した。大学は卒業せずにモスクワ市党委員会の党務に就いたという説がある一方、息子は、父がギムナジウムを金賞で卒業し、大学院に誘われたが党の仕事を辞められなかったと主張している。

1924年にスターリンの目に留まり、党中央委員会に引き入れられた。1925年に中央委員会組織局で働き、のちにスターリン個人の秘書局員となり、1932年2月にその責任者となった。1934年3月に全ソ連邦共産党の組織部長となり、1936年8月に始まったスターリンの大粛清に加担した。1937年の夏には、スターリンの指示で、エジョフらと各地を訪れ、地方の党組織や内務人民委員部などの活動を視察して、大規模な粛清を実行した。しかしエジョフの失脚にも大きな役割を果たし、彼の率いる部門が党に忠実な共産党員を抹殺したと非難して、ベリヤとともにエジョフの逮捕を指揮した。その功で1939年3月に中央委員会委員、党書記局員となり、党幹部要員管理局長として人事を統制できるようになった。1941年6月に独ソ戦が始まると、国家防衛委員会の委員となり、ソ連の最有力政治家の一人となった。

1944年5月に副首相となり、1946年3月に党政治局員に昇進して、党第二書記として党内でスターリンの代理の職務を割り当てられた。ところが同年3月から8月まで、監督した航空事業で欠陥のある航空機が量産されたとして、責任を問われて解任された。政敵ジダーノフの追い落とし工作だったが、コミンフォルムでの活躍によりスターリンの腹心に戻った。ジダーノフの死後、ベリヤとともに「レニングラード事件」を捏造し、ジダーノフの同調者や党幹部を逮捕して処刑した。マレンコフは晩年、スターリンの指示に従ってこの粛清を実施したと認めた。1952年10月の第19回党大会では、スターリンに代わって中央委員会報告を行い、後継者と観測された。

1953年3月5日にスターリンが死去すると、翌日、首相の後任となり、書記局の名簿筆頭にも載った。しかし新指導部は、強大な権限が一人に集中することを避け、マレンコフは書記局の主導権をフルシチョフに譲り、フルシチョフ、ヴォロシーロフとの「トロイカ体制」が成立した。首相のあいだ、「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言し、外交では平和的な路線をとり、経済では消費財を生産する軽工業に力を入れようとした。しかし政策は財源の課題もあって目標達成が難しく、1955年2月8日にフルシチョフによる追い落とし工作に遭って、首相を辞任し、副首相兼発電所大臣に降格された。1957年6月、モロトフらとフルシチョフに対するクーデターを画策したが失敗し、「反党グループ」として批判され、政治局から追放された。1988年1月14日に没した。

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