伝記
クリスチャン3世は、1503年8月12日、のちのデンマーク王フレゼリク1世と、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロの娘アンナの長男として、父が主な住まいとしたゴットルフ城で生まれた。1514年、10歳のときに母が死去し、4年後に父はソフィー・ア・ポンメルンと再婚した。1523年に父が従兄のクリスチャン2世を廃してデンマーク王となると、若い王子の最初の公務は、クリスチャン2世を支持し続けたコペンハーゲンを服従させることだった。1526年にホルシュタイン公・スレースヴィ公となり、1529年にはノルウェー総督として行政手腕を示した。
最初の教師ヴォルフガング・フォン・ウーテンホーフと、ルター派の家庭教師ヨハン・ランツァウの影響を受け、1521年にドイツへ遊学してヴォルムス帝国議会でルターの講演を聴き、深く引きつけられた。ルター派の考えを隠さず、辛辣な批判はカトリックが多数を占める王国参事会や、慎重な父王との衝突を生んだ。司教たちの反対にもかかわらず、自らの統治下のスレースヴィ公国でルター派の布教が行われるよう最善を尽くした。1525年にはザクセン=ラウエンブルク公マグヌス1世の娘ドロテアと結婚している。
1533年に父が死去すると、参事会の多数派を占める聖職者や貴族はルター派のクリスチャンの即位を拒み、異母弟ハンスを擁立しようとして、国王選出は延期された。翌1534年、オルデンブルク伯クリストファがリューベックなどの支援を受けてクリスチャン2世の復位を名目に挙兵し、2年にわたる伯爵戦争が始まった。宮廷長官モーエンス・ゴイェらの働きで、7月にユラン半島東部のライの教会でクリスチャンの国王即位が決定され、8月18日に即位した。伯爵の側にはシェラン島やスコーネ、ハンザ同盟、ユラン半島北部やフュン島の農民が付き、クリスチャンの側にはユランの貴族が付いた。船乗りクレメントの率いる農民軍は北ユランを襲って荘園を焼き、貴族軍を破り、王位は風前の灯となった。
クリスチャンはハンザ諸邦と一時の講和を結んで、ランツァウ率いる北ドイツの傭兵をユランへ送り込み、12月にオールボーを急襲させて農民軍を破った。クレメントは捕らえられ、のちに処刑された。続いてスウェーデン王グスタフ1世の助力を得てスコーネなどの農民軍を退け、1535年6月にはランツァウがフュン島で伯爵の軍を破った。1536年7月29日にコペンハーゲンが降伏して戦争は終わった。
戦後、クリスチャンは8月12日の司教逮捕を皮切りに宗教改革を進めた。10月には聖職者を除いた諸侯会議で教会領の没収、ノルウェーの一地方化、息子フレゼリクを後継とする即位憲章を承認させ、翌1537年に教会法を制定し、コペンハーゲン大学を復興してルター派を国教化した。スウェーデンが独立した後の1537年にはカルマル同盟が再編され、1814年まで続くデンマーク=ノルウェー同君連合王国が成立したとされる。外交では、1541年にスウェーデンと50年間の軍事同盟であるブレムセブロー条約を結び、フランスとも同盟した。1544年には神聖ローマ帝国とシュパイアー条約を結び、クリスチャン2世の相続者を支援しないことを認めさせた。こうして残りの治世は平和が保たれ、1559年1月1日に没した。子にはのちにフレゼリク2世となる王子や、リヴォニア王となったマグヌスらがいる。
同じ年に亡くなった人物
- レアルド・コロンボ (1559年)
- クリスチャン2世 (デンマーク王) (1559年没)
- ミルチャ・チョバヌル (1559年)
- 楊慎 (1559年没)
- ロレンツォ・プリウリ (1559年)
同じ地域に関係する人物
- ホルガー・ユール・ハンセン (2013年没)
- クリスティーナ・フォン・ザクセン (1461-1521) (1521年没)
- ルーズ・ランゴー (1952年没)
- エーリク2世 (デンマーク王) (1137年没)
- アンデシュ・サンデー・エルステッド (生物学者) (1872年没)