伝記
トマ・イシドール・ノエル・サンカラは、1949年12月21日、フランス領西アフリカのオートボルタ(現在のブルキナファソ)のヤコ付近の村で、フラニ人の父とモシ人の母の間に生まれた。長男ともいわれ、12人きょうだいの3番目ともいわれる。少年時代はカトリック教会に熱心に通い、聖職者を望む両親の期待に反して、軍人の道を選んだ。小学校ではフランス人入植者の子と一緒に過ごし、そこで不正義に気づいたという。当初は医師を志したが、経済的な理由で士官学校に入り、在学中にマルクス主義の影響を受けた。1970年から1972年までマダガスカルの軍事学校に留学し、現地で民衆蜂起が体制を倒すのを目撃した。帰国前には、フランスのポーの空挺学校でも学んだ。
1974年に隣国マリとの国境紛争が起きると、その中で頭角を現し、のちに盟友となるブレーズ・コンパオレとも出会った。紛争後は南部のポで落下傘部隊に所属し、軍内の高級将校を批判する政治活動を始めた。1980年のクーデターでゼルボ政権が成立すると、1981年9月に情報部長官に任じられたが、1982年5月には職を辞した。1982年11月のクーデターのあと、民衆の人気を背景に、1983年1月に首相に任命された。リビアのカダフィ大佐が接近し、サンカラもキューバ、アルジェリア、ガーナなどの社会主義国との関係を深めた。1983年5月に政府に拘禁されたが、民衆は、フランスのミッテラン大統領の意向だと受け止めた。同年7月、盟友コンパオレが組織したクーデターで、ウエドラオゴ大統領は辞任し、8月4日、サンカラは33歳の若さで、第5代の大統領に就任した。
10月2日の「施政方針演説」で、女性の解放、軍隊の社会改良の役割、地方分権化を革命の理念に掲げた。自身を革命家と見なし、帝国主義と新植民地主義の打倒を訴えた。社会を「人民」と「人民の敵」に分け、ブルジョワジーや伝統的首長ら、従来の政治エリートから特権を奪おうとした。1984年には、国名をオートボルタからブルキナファソに変えた。「高潔な人々の国」という意味である。新しい国旗を採用し、自ら国歌の作詞もした。貧困と腐敗の一掃、教育と社会保障の改善、サヘルの砂漠の緑化に取り組み、1000万本以上の木を植えた。女性政策では、西アフリカで初めて女性器切除の禁止を打ち出し、一夫多妻制や強制婚を非合法として、避妊を奨励した。識字運動や予防接種の普及も進め、政府の中枢には多くの女性を起用した。アフリカの大統領として初めて、エイズの蔓延を公式に認めたともされる。
他方、権力は個人に集中して、軍部への依存が進み、革命の組織化には失敗した。「人民の敵」とされたエリート層への抑圧も進んだ。急進的な左傾化で、フランスやコートジボワール、マリとの関係は緊張した。1983年のクーデター直後から、側近のコンパオレとは微妙な対立が続き、1985年にはマリとの国境紛争で、4村がマリに割譲された。1987年10月15日、コンパオレらが主導したクーデターのなかで、ワガドゥグーで殺害され、37歳の生涯を閉じた。遺体は墓石もなく埋葬されたが、2015年の調査で発見され、十数発の銃弾の痕から暗殺が確認された。「アフリカのゲバラ」とも呼ばれ、没後30年を経ても、国民の敬愛を集めている。2022年4月6日、軍事法廷は、コートジボワールに亡命中のコンパオレに対し、暗殺に関与した罪で終身刑を言い渡した。
同じ年に亡くなった人物
- マリアーノ・カニャルド (1987年没)
- アレッサンドロ・ブラゼッティ (1987年没)
- 高松宮宣仁親王 (1987年没)
- グスタフ・クヌート (1987年没)
- リタ・ヘイワース (1987年没)
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