伝記
岸信介は、1896年(明治29年)11月13日に生まれ、1987年(昭和62年)8月7日に没した日本の政治家であり、農商務・商工官僚である。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。出生名は佐藤信介で、弟に、のち1964年から1972年まで首相を務めた佐藤栄作がいる。
山口県吉敷郡山口町で、山口県庁の官吏だった佐藤秀助と茂世夫妻の次男として生まれた。曽祖父の佐藤信寛がちょうど山口に来ており、自分の名の一字を取って「信介」と名づけたという。3歳ごろ、父が勤めをやめて郷里に帰り、酒造業を営んだ。岡山中学に進んだが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父が急逝し、山口中学に転校した。中学3年生の時に、婿養子だった父の実家、岸家の養子となった。1914年に山口中学を卒業して上京し、第一高等学校に入ったが、入試の成績は最下位から2、3番目だった。しかし入学後は秀才ぶりが語り継がれ、親友の我妻栄、三輪寿壮と常に成績を争った。1917年に東京帝国大学法学部に入学し、このころには社会主義に関心を寄せたが、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想により魅了され、のちの満洲国への関与に大川の影響があったことを認めている。
1920年に東京帝国大学を卒業し、上杉慎吉から大学に残るよう強く求められたが、官界を選んだ。「これからは産業」と、二流官庁と思われていた農商務省に入り、周囲を驚かせた。商工省では、1935年に工務局長となり、自動車製造事業法の立法に貢献した。1936年10月に満洲国国務院実業部総務司長に就任して渡満し、1939年3月には総務庁次長となった。この間に計画経済、統制経済を大胆に取り入れた「産業開発5か年計画」を実施した。星野直樹らとともに満洲経営に辣腕を振るい、関東軍参謀長だった東條英機や鮎川義介らの知己を得て、軍、財、官界にまたがる人脈を築き、満洲国の5人の大物「弐キ参スケ」の一人に数えられた。
1939年10月に帰国して商工次官となり、1941年10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣した。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名し、太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年の総選挙で当選して政治家としての一歩を踏み出し、のちに無任所相兼軍需次官となった。1944年7月にサイパン島が陥落すると、早期和平を望む重臣たちによる倒閣工作が進められた。東條が内閣改造に着手しようとするなかで、岸は、サイパン陥落に伴う本土空襲の恐れから、軍需次官としての責任が果たせないと講和を要求し、辞職を迫られても拒否して閣内不一致を現出させた。7月18日に東條内閣は総辞職した。
戦争が終結すると、開戦時の商工大臣などを務めた責任を問われ、1945年9月にA級戦犯被疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に拘置された。3年半拘留されたが、不起訴により釈放された。公職追放も、冷戦の影響による米国の方針変更で、サンフランシスコ講和条約の発効とともに解除された。東洋パルプの会長を務めたのち、政界復帰を目指して日本再建連盟を設立し、弟も属する吉田自由党に入党したが、吉田茂と対立して除名された。日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となり、石橋内閣で外務大臣に就いた。石橋湛山の病気により臨時代理を務め、内閣が総辞職すると後任の首相に指名された。日米安全保障条約の改定を強行採決し、安保闘争を抑え込んだが、総辞職に追い込まれた。1979年の政界引退後も、自民党右派に影響力を行使し、「昭和の妖怪」とあだ名された。
同じ年に亡くなった人物
- マデリーン・キャロル (1987年没)
- ノーマン・マクラレン (1987年没)
- クレア・ブース・ルース (1987年没)
- パク・ヨンスン (1987年没)
- アブ・サイード・チョードリー (1987年没)