HISTORICAL PERSON · 1557年没

ジョアン3世 (ポルトガル王)

「敬虔王」と呼ばれるポルトガル王。海外植民地の拡大と宣教を奨励し、新興のイエズス会を庇護して、宣教師を本土と植民地へ送った。

生涯
1557年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リベイラ宮殿)
出生地
ポルトガル共和国(サン・ジョルジェ城)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

ジョアン3世は、1502年6月6日にリスボンで生まれ、1557年6月11日に没したポルトガル王で、在位は1521年から1557年である。「敬虔王」と呼ばれる。父はマヌエル1世、母はカトリック両王の三女マリアで、父の第二の妃との間の長子であった。1503年に王位継承者として宣誓を受け、占星術師トマス・デ・トーレスや、ヴィゼウ司教ディオゴ・デ・オルティスら当代の学者に学び、ラテン語、ギリシア語、数学、宇宙誌を修めた。16歳のとき、従妹のエレオノーラ・デ・アウストリアと結婚するはずだったが、彼女は寡夫となっていた父マヌエルに嫁いだ。ジョアンは深く傷つき、憂鬱になって以前のようではなくなったと年代記は伝え、これが後に信仰に熱心になった理由の一つとする歴史家もいる。

1521年、父の死により19歳で王位を継ぎ、12月19日にリスボンで戴冠した。歴代の絶対主義的な政治を続け、国会は1525年、1535年、1544年の3度しか開かなかった。1525年には、エレオノーラの妹で神聖ローマ皇帝カール5世の妹にあたる従妹カタリナ・デ・アウストリアと結婚し、スペインや神聖ローマ帝国との結びつきを強めた。対外的には、ヨーロッパ諸国との衝突を避けつつ、海外植民地の維持と発展を図った。スペインとはモルッカ諸島の領有権で揉めたが、1529年のサラゴサ条約でポルトガルが領有し、香辛料などの取引を王室独占として莫大な収益を上げた。インドには1524年にヴァスコ・ダ・ガマを派遣し、後任の総督たちがグジャラートのスルターンやオスマン帝国と戦い、ポルトガル領インドを確保した。

この時期、ポルトガル人は日本へも進出した。1543年の鉄砲伝来(時期は諸説ある)、1549年のフランシスコ・ザビエルの日本上陸が挙げられ、1557年には明からマカオを貸借した。ブラジルでは、木材を伐採し始めたフランス人に対抗して植民を進め、1530年にカピタニア制を導入したが失敗し、1549年に王直属の総督による統治に切り替えた。第3代総督メン・デ・サの働きでフランスの進出は撃退された。

宗教では対抗宗教改革を熱心に推進し、1536年に教皇パウルス3世の教書を得て、ポルトガルに異端審問所を設立した。1537年にはコインブラ大学を創設している。イグナティウス・デ・ロヨラがイエズス会を創設したと聞くと、植民地の異教徒への宣教師の派遣を依頼した。急病のボバディリャに代わり、フランシスコ・ザビエルがシモン・ロドリゲスとともに1540年3月にリスボンへ到着し、ジョアン3世は感銘を受け、翌1541年4月7日にザビエルをリスボンからインドのゴアへ派遣した。

治世の末にはさまざまな負の面も現れた。異端審問で迫害された新キリスト教徒はオランダやフランスなどへ亡命し、香辛料貿易は制海権の維持費や旧来の交易路の復活によって衰え、財政難からモロッコの諸都市から撤退した。劇作家ジル・ヴィセンテの作品は1547年と1551年に発禁とされ、閉塞状態のポルトガルは他国の経済や科学の進歩に後れをとった。1557年、55歳で心臓麻痺により死去した。王妃との間の9人と庶子2人はすべて先立っており、わずか3歳の孫セバスティアン1世が王位を継ぎ、初めは王妃カタリナ、続いて弟エンリケが摂政を務めた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物