伝記
ピーリー・レイースは、オスマン帝国海軍の軍人であり、世界地図と航海案内書の作者として知られる人物である。「レイース」は「提督」あるいは「船長」を意味する称号で、本名はアフメット・ムヒッディン・ピリという。生年は1465年から1470年の間とされ、没年は1554年とする資料が多いが、1553年とするものもある。16世紀のオスマン帝国が到達した海洋知識の高さを示す存在とされる。
出身はダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)で、オスマン帝国の主要な海軍基地でもあった。父ハジ・メフメトの死後、叔父で艦隊の提督だったケマル・レイースに引き取られたという。学者イブラヒム・ユルマズは、両親が1481年頃に亡くなり、その後に叔父の船で働き始めたと推測している。ピリー自身は後年、航海を始めて間もない頃に嵐でガレー船が壊れかけ、アトス山近くの小さな岩の港に避難した際、正教会の修道士たちが綱で船を岸につなぎとめてくれたと書き残した。バヤジト2世の承認のもと、叔父らとともに西へ向かい、イベリア半島でスペインに併合されつつあったムスリムを救援した。1487年には叔父を助けて、マラガを包囲する軍勢を砲撃したとされる。
その後は叔父に従い、北アフリカの港で冬を越しながら、スペインやフランスの沿岸、コルシカ、サルデーニャ、シチリアなどの島々を襲う生活を約6年続けた。ピリーは自分たちを「海のガーズィー」と称し、宗教の敵と容赦なく戦ったと記している。のちに自ら船を指揮して、1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加し、船長を意味するレイースの称号を与えられた。1516年から1517年にはシリアとエジプトの海域に出動し、セリム1世のマムルーク朝征服を援護した。1522年にはスレイマン1世のロドス島遠征に加わり、バルバロス・ハイレッディンが帝国海軍司令官になると、その配下の提督として活躍した。
軍務のかたわらで、詳細な世界地図と航海案内書『海洋の書(キターブ・バフリエ)』をつくった。世界地図は1513年と1526年の記年をもつ2種の断簡が現存し、どちらもアメリカ大陸を詳細に描いて高く評価される。1513年の地図はセリム1世に献呈され、航海案内書はスレイマン1世に捧げられた。1521年と1526年の記年をもつ2写本が伝わる『海洋の書』は、エーゲ海から地中海全域までの海域ごとに200図以上の地図と、航行法、地誌、歴史情報を記す。生前の評価は高くなかったが、没後には多くの写本が作られた。
1547年、老練の提督となったピーリーはスレイマン1世により、紅海に駐留するインド洋方面艦隊の司令官に任命された。1551年にアデンを征服し、アラビア海やペルシア湾に出動して、マスカットやホルムズ海峡を攻撃し、ポルトガルの進出を牽制した。ところがバスラ沖にポルトガル艦隊が現れたとの報で出撃したものの、バーレーン近海でガレー船1隻を沈めただけで攻撃を中止し、エジプトへ帰った。これが戦線放棄の罪に問われ、1554年にスレイマン1世の命でカイロで処刑された。1929年、イスタンブールのトプカプ宮殿の改修中に最初の世界地図が再発見され、コロンブスの失われた地図を引用していることから関心を集めた。
同じ年に亡くなった人物
- ギルフォード・ダドリー (1554年没)
- シエサ・デ・レオン (1554年)
- ヒュー・ウィロビー (1554年没)
- ジョアン・マヌエル・デ・ポルトゥガル (1554年没)
- Tan Yunxian (1554年)
同じ地域に関係する人物
- ギュンター・クヴァント (1954年没)
- ワルダ・アルジャザイリア (2012年没)
- アリ・イブン・リドワン (1061年没)
- サイイド・クトゥブ (1966年没)
- Az-Zahir Sayf ad-Din Khuchqadam (1467年没)