伝記
オットー・プレミンジャーは、1905年12月5日、オーストリア=ハンガリー帝国の北ブコヴィナのヴィシュニッツ(現在のウクライナのウィシュニジャ)に生まれた映画監督、映画プロデューサーである。1950年代から1960年代のハリウッドで活躍した。父マルクスはユダヤ系の法律家で、帝国の検事総長を務め、母はヨゼファだった。第一次世界大戦の勃発の翌年、一家はウィーンへ移った。祖父に連れられて、リング通りのブルク劇場へ通い、古典から現代まで多くの舞台に触れて、演劇への情熱を育てた。16歳で『夏の夜の夢』のライサンダー役を得た。
父の影響で法律の道に進み、ウィーン大学の法学生となったが、17歳の1923年に、ウィーンで劇団を作ると発表したマックス・ラインハルトに、週ごとに手紙を書き続けて、オーディションにこぎつけ、その劇団に参加した。最初は俳優で、のちに舞台監督となった。ラインハルトとは師弟の特別な関係を結び、俳優学校を任されたが、やがてその影を離れて、演出に転じようとした。しかし、ナチスが台頭したため、1935年に20世紀フォックスに招かれてハリウッドに渡ったが、うまくいかず、しばらくはブロードウェイで仕事をした。
ユダヤ人でありながら、オーストリア訛りがあり、悪役に向く人相だったため、皮肉にも、自分が嫌ったナチの人物を、舞台で何度も演じた。後年も、同郷のビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』で、冷酷なドイツ軍人の収容所長を演じた。1940年代に映画界に戻り、1944年のフィルム・ノワール『ローラ殺人事件』の脚本と製作を担当した。監督の仕事ぶりに、製作者のダリル・F・ザナックもプレミンジャーも不満で、ザナックが監督を解雇し、監督志望だったプレミンジャーが後釜に座った。初監督作の『ローラ殺人事件』で、新進の監督として注目され、アカデミー監督賞にノミネートされた。『堕ちた天使』や『歩道の終わる所』などのフィルム・ノワールも成功させた。
1950年代には、プロデューサー兼監督として、タブーに挑む大胆な映画を次々に送り出した。1953年の『月蒼くして』は、バージンや妊娠といった性的な台詞が多すぎるとして、アメリカ映画製作者協会が自主規制を求めたが、これに反発して協会を脱退し、審査のマークなしで公開を強行した。大ヒットして、時代遅れの映画倫理規定を改めさせるきっかけとなった。黒人俳優だけによるミュージカル『カルメン』、麻薬中毒を正面から描いた『黄金の腕』、サガン原作で、主演のジーン・セバーグの髪型が流行した『悲しみよこんにちは』、強姦事件を取り上げた法廷劇『或る殺人』など、意欲作が続いた。タイトル・デザインや宣伝ポスターにソウル・バスを起用し、オープニングタイトルの様式に革命を起こした。1960年の『栄光への脱出』では、赤狩りでハリウッドを追われた脚本家ダルトン・トランボを起用した。1962年の『野望の系列』や、再び監督賞候補となった『枢機卿』も発表した。
俳優に妥協のない演技を求める、恐るべきワンマンでもあり、『枢機卿』では主演のトム・トライオンを極度に追い詰めて、トライオンはほどなく映画界から引退した。ジーン・セバーグも怒鳴られてボロボロになったという。テレビ版『バットマン』では、ミスター・フリーズ役で出演した。1979年の遺作『ヒューマン・ファクター』を最後に映画製作を離れ、1986年4月23日にニューヨークで没した。アルツハイマー型認知症とがんに冒されていたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- クリストファー・イシャーウッド (1986年没)
- アルバート・シュワルツ (1986年没)
- オルドリッチ・リプスキー (1986年没)
- シモーヌ・ド・ボーヴォワール (1986年没)
- エリック・ビュレーン (1986年没)
同じ地域に関係する人物
- マリアン・トランプ・バリー (2023年没)
- アンドリュー・メロン (1937年没)
- ヘイゼル・スコット (1981年没)
- ルイス・アガシス・フーエルテス (1927年没)
- ノーマン・メイラー (2007年没)