伝記
ケーリー・グラントは、1904年1月18日、イギリスのブリストルの北部郊外で、アーチボルド・アレグザンダー・リーチとして生まれた俳優である。英国国教会の信者であった両親の次男で、父エライアスは縫製工場のアイロン係、母エルシーは裁縫師だった。母は、彼の4年前に生まれた長男を、生後1年足らずで亡くしており、その子の代わりを背負う形で、アーチボルドは育った。母は息子に大きな運命を夢見て、紳士にしようと歌とダンスを教え、ピアノも習わせたが、過保護で、食卓での行儀が悪いと叩くこともあった。父はアルコール依存で、母は長男の死の後、慢性的な抑鬱に苦しみ、両親の仲は悪く、金にも不自由した。9歳のとき、母が精神疾患のため入院させられたが、父は息子に、母が長い休暇に出かけたと説明した。子供は母に捨てられたと思い、女性への強い不信を抱いた。のちに父は、母は心臓発作で死んだと告げた。母が生きていると知ったのは、31歳になってからのことだった。
1915年、父はサウサンプトンで新しい家族を作って、アーチボルドを祖母のもとに残して去った。彼は幼いころ、父と見に行ったクリスマスのパントマイムを好み、アクロバットで踊るペンダー一座と親しくなって、手で歩いたり竹馬に乗ったりすることを習い、巡業に加わるようになった。ブリストルのフェアフィールド校では運動が得意で、同級生に好かれたが、授業をさぼり、夜は劇場の裏方を手伝っていた。1917年、16歳のときには、奇術師の舞台の照明係を任された。1918年に同校を放校処分となると、ボブ・ペンダーの一座に正式に加わり、一座とともに2年間のアメリカ公演旅行をした。一座がイギリスに戻ってもアメリカに残り、上流階級のアクセントを混ぜた独特の話し方と役柄を作った。ブロードウェイのコメディで成功したのち、1931年にハリウッドで仕事を得て、ケーリー・グラントの芸名を使い始めた。
1932年の『ブロンド・ヴィナス』でマレーネ・ディートリヒと、1935年にキャサリン・ヘプバーンと共演した。1937年のレオ・マッケリー監督『新婚道中記』でスターの仲間入りを果たした。1941年の『愛のアルバム』と1945年の作品で、アカデミー主演男優賞の候補となったが、受賞はしなかった。アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りで、『断崖』『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』の4本に出演した。1942年6月26日にアメリカに帰化した。1950年代には自分の製作会社を設立し、スタジオ・システムを抜け出して成功した初めての俳優といえる。ローレンス・オリヴィエは「観客に『この人のようになりたい!』と思わせることが出来る唯一の俳優」と称えた。結婚は5回した。1934年の女優ヴァージニア・チェリルとは翌年に離婚し、1942年の富豪バーバラ・ハットンとは4年で別れた。1949年のベッツィ・ドレイクとの結婚が最も長く続き、1962年に離婚した。1965年にダイアン・キャノンと駆け落ちして娘が生まれたが、1968年に離婚した。1981年には47歳年下のバーバラ・ハリスと結婚した。1965年10月の『歩け走るな!』の日本ロケで来日し、1970年にアカデミー名誉賞を受けた。1986年、アイオワ州ダベンポートで舞台のリハーサル中に倒れ、脳卒中で急逝した。11月29日だった。
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