HISTORICAL PERSON · 1553年没

ミシェル・セルヴェ

宗教改革期の人文主義者・医師・神学者。三位一体説を否定して独自の神学を展開し、ヨーロッパ人で最も早く血液循環について書いた。1553年、カルヴァンが統治するジュネーヴで火刑に処された。

生涯
1553年没
死亡地
スイス連邦(ジュネーヴ州 / ジュネーヴ)
出生地
スペイン王国(トゥデラ)
出典
世界地図
スイス連邦(ジュネーヴ州)

伝記

ミシェル・セルヴェは、宗教改革期の人文主義者・医師・神学者で、スペイン語ではミゲル・セルヴェート、ラテン語ではミカエル・セルウェトスという。1511年、アラゴン王国のビリャヌエバ・デ・シヘナに生まれた。誕生日は聖ミカエルの祝日の9月29日と推定されるが、記録はなく、本人がときに1509年生まれと述べたことから、これより早い年とする資料もある。父アントニオ・セルヴェートは公証人で、兄弟の一人は父と同じ公証人に、もう一人はカトリックの司祭になった。母方は、モンソン地方のユダヤ教から改宗した家の出であった。

ドミニコ会の修道士からラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を学び、15歳のころ、フランシスコ会の修道士フアン・デ・キンターナの助手になった。聖書を原典の言語で通読し、1526年にはトゥルーズ大学で法学を学んだ。1528年にはキンターナとともにドイツとイタリアを巡り、1530年10月にバーゼルでエコランパディウスを訪ねて約10か月滞在し、1531年5月にはストラスブールで改革者ブツァーらに会った。こうした各地の遍歴のなかで宗教改革の思想に触れ、カトリックの教義に疑問を抱くようになった。

1531年に、名を隠して『七つの書物における三位一体説の誤謬』という小冊子を出版し、神における三つの人格の三位一体を疑い、否定した。翌年には『三位一体についての対話』などを出した。迫害を避けて「ミシェル・ド・ヴィルヌーヴ」の変名を用いた。1533年にパリのカルヴィ学寮に学び、1536年には再びパリで医学を学んだ。その師は、ヴェサリウスが「解剖における最も有能な助手」と評した人物だったという。その後は医者として、ヴィエンヌ大司教ピエール・パルミエの侍医などを務め、リヨン近郊で15年ほど開業した。この間、プトレマイオスの『地理学』を2度刊行し、医学・薬学の書も出し、リヨンの人文主義者の医師サンフォリアン・シャンピエの後援を受けた。ヨーロッパ人で最も早く血液の肺循環について書いたことでも知られる。古代ギリシアの研究にも打ち込んだ。

1553年、大著『キリスト教の復原』を名前を明かして出版し、カトリックと改革派の双方の権力体制を、本来のキリスト教の堕落だと批判した。この書は、予定説や、功績に関わりなく神が魂を地獄に落とすという考えを退けた。ジャン・カルヴァンとは以前から書簡を交わしていたが、カルヴァンの『キリスト教綱要』に厳しい批判を書き込んで返し、議論は激しくなって、カルヴァンは返信をやめた。セルヴェは異端として告発されて投獄されたが、旧友の刑務所長の助けで脱獄し、欠席裁判で火刑の判決を受けた。スイスに逃れ、カルヴァンが神権政治を敷いていたジュネーヴに身を寄せたところをすぐに捕らえられ、裁判で火刑の判決を受け、1553年10月27日に焼死した。処刑に先立って同盟の諸都市の意見が求められ、厳重な処置を支持する声が集まったが、死刑を勧めたものは一つもなかったという。

セルヴェは、三位一体は聖書に基づかず、ギリシアの哲学に由来すると指摘し、福音書の単純さと初期教父の教えへの回帰を唱えた。神は不可分で唯一の存在であり、父・子・聖霊はその性質だと主張した。約400年後の1903年10月27日、長老派教会は処刑の地に贖罪の碑を建てた。

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