伝記
劉備は、後漢末期から三国時代にかけての武将で、蜀漢の初代皇帝である。延熹4年(161年)に生まれ、章武3年(223年)に没した。涿郡涿県楼桑里の出身で、祖父は劉雄、父は劉弘。父が幼い頃に死んだため家は貧しくなり、母とともに筵を織って暮らしを立てた。幼い日に家の前の大きな桑の木を見て「大きくなったら天子の乗る馬車に乗る」と言い、叔父の劉子敬に口を塞がれて叱られたという逸話が残る。15歳の頃には従叔父の援助で盧植に学び、同門の公孫瓚とは兄事するほど親しくなった。
青年期の劉備は読書を好まず、闘犬や乗馬、音楽、華美な衣服を好んだ。身長は7尺5寸(約175センチ)で耳たぶが長く、口数が少なく喜怒を顔に出さなかったが、豪傑との交際を好み、若者たちに慕われた。中山の豪商である張世平と蘇双が只者でないと見て大金を与え、その資金で仲間を集めた。黄巾の乱が起こると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと義勇軍を結成して功を挙げ、安熹県の尉となったが、面会を断った督郵を縛り上げて杖で打ち、官を捨てて逃げた。のちに敗れて公孫瓚のもとに身を寄せ、別部司馬となった。このとき後に配下となる趙雲が主騎を務めている。戦功により公孫瓚の推薦を受けて平原国の相にまで進み、刺客が劉備のへりくだった態度に感じ入って暗殺を思い止まったという話も伝わる。
初平4年(193年)、曹操に攻められた徐州の陶謙を救援に赴き、厚遇されて丹陽兵4000人を与えられた。陶謙の病が重くなると徐州を託され、陳登や孔融らの説得を受けて領した。だが呂布を迎え入れたのちに下邳を奪われ、妻子も囚われて小沛へ移った。やがて呂布に敗れて曹操のもとに身を寄せ、左将軍に任じられた。呂布が捕らえられた際には、劉備は曹操に「呂布がかつて丁原と董卓を殺したことをお忘れなきよう」と諫め、呂布は処刑された。曹操からは「天下の英雄は貴公と私だけだ」と評されたという。しかし董承らの曹操討伐計画に加わり、袁術討伐を名目に徐州へ出て車冑を殺し、曹操に背いた。曹操自身が攻めてくると敵せず、袁紹のもとへ逃れ、官渡の戦いの頃には汝南で曹操方と戦った。袁紹の敗北後は荊州の劉表を頼り、新野を与えられて博望坡で夏侯惇・于禁の軍を破った。この頃、宴席で厠から戻って涙を流し、馬に乗らず腿に肉がついたと嘆いたという話から、髀肉之嘆の故事が生まれた。
建安12年(207年)、徐庶の進言により諸葛亮の草庵を三度訪ね、天下三分の計を聞いた。劉備は深く感銘を受け、関羽と張飛が不満を見せると、諸葛亮との仲を水と魚の関係にたとえてなだめたという。劉表の没後、後を継いだ劉琮が曹操に降伏すると、諸葛亮は荊州を奪うよう勧めたが、劉備は忍びないとして退けた。逃げる劉備に十数万の住民が従い、「私を信じてついてきた人々を捨てては行けぬ」と言って行軍を続けたが、曹操の軽騎兵に追いつかれて大きな打撃を受けた。妻子と離れ離れになり、二人の娘も曹純に捕らえられるという惨状だった。
その後、劉備は諸葛亮の策に基づいて益州を得て勢力を築いた。後漢が滅びると皇帝に即位して漢(蜀漢)を建て、魏・呉・蜀による三国鼎立の時代が始まった。章武3年4月24日(223年6月10日)に没した。臨終には諸葛亮に「そなたの才能は曹丕の10倍ある」と語ったとされる。元末明初の頃に成立した歴史小説『三国志演義』では、物語の中心人物として描かれている。