伝記
コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコは、1911年9月24日に生まれ、1985年3月10日に没したソビエト連邦の政治家である。1984年から1985年まで、ソ連共産党中央委員会書記長(第5代)と最高会議幹部会議長(第9代)を務め、1年余りの間、同国の最高指導者であった。就任当初から健康問題が取り沙汰され、短期間で死去し、より若いミハイル・ゴルバチョフが後継者となった。
ロシア帝国のシベリア、クラスノヤルスクの村に、貧農の子として生まれた。祖先はシベリア送りにされたウクライナ人で、父は鉱山で働き、母は農作業に従事した。幼いころは富農に雇われて働いた。1929年にコムソモールに入り、地区の宣伝・煽動部長となった。1930年に軍に志願し、国境警備隊に配属される。1931年にソ連共産党に入党し、除隊後は地方党の宣伝部副部長となった。第二次世界大戦中はクラスノヤルスク地方党書記を務め、モルダビアの教育大学を卒業した。戦後の1945年にペンザ州党委員会書記を経て、1948年にモルダビア共和国共産党の宣伝扇動部長となった。このときのモルダビア共産党第一書記が、のちの書記長レオニード・ブレジネフであった。
ブレジネフの知遇を得て、1956年に党の宣伝部で課長に登用され、以後その側近として昇進を続けた。1960年にブレジネフが最高会議幹部会議長に就くと、首席補佐官となった。1964年にフルシチョフが失脚してブレジネフが第一書記になると、翌1965年に、「書記長官房」の異名を持つ党中央委員会総務部長に指名された。政治局の議題の設定や、法案と決議案の準備をつかさどり、党幹部の電話を盗聴して行動を監視する任務も担った。毎日何百もの党文書に署名する仕事もあり、20年にわたってこの職にあった。1971年に中央委員会委員、1976年3月に中央委員会書記へ抜擢され、1977年に政治局員候補、1978年11月に政治局員へと昇進した。ブレジネフ政権の末期には、党のイデオロギーを担当し、外国訪問でソ連代表を率いたほか、重要な会議にはブレジネフに同伴した。
1984年2月9日にアンドロポフが死去すると、葬儀委員長となった。2月13日に中央委員会の臨時総会で書記長に選ばれた。急激な変化を嫌う既成勢力を背景とした後継者だった。4月11日からは最高会議幹部会議長を兼ねた。ところが就任当初から健康状態が悪く、アンドロポフの国葬では、レーニン廟上の演壇で追悼演説を行う際、階段を昇り降りすることもままならず、護衛2人の助けを借りた。参列したイギリスの社民党党首で医師でもあったデイヴィッド・オーウェンは、肺気腫を患っていると思われるとの見解を示し、1年後の死が、その診断の正しさを証明する格好になった。
就任後、ブレジネフ時代後期の政策への回帰を表明したが、技術や専門教育を重視する教育改革に着手し、アンドロポフ政権が導入した企業の自主性拡大の実験も続けた。アンドロポフが後継に指名していたゴルバチョフを第二書記に任命し、改革派への配慮も見せた。1984年9月6日には、参謀総長のオガルコフ元帥を電撃的に解任して世界を驚かせた。外交では当初、軍備管理で強硬な姿勢をとったが奏功せず、同年9月のグロムイコ外相の訪米後、「対話」路線へ転換し、軍備管理協議を1985年初頭に再開することで合意した。1984年5月には、1980年のモスクワ五輪への西側の不参加を受け、ロサンゼルス五輪への不参加が決まった。1985年3月10日、肺気腫の悪化による心肺機能不全で死去した。73歳だった。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョージア・ヘイル (1985年没)
- マーガレット・マーラー (1985年没)
- フィリー・ジョー・ジョーンズ (1985年没)
- パトリシア・ロバーツ・ハリス (1985年没)
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- コルネイ・チュコフスキー (1969年没)
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