伝記
サマンサ・リード・スミスは、1972年6月29日に生まれ、1985年8月25日に13歳で没したアメリカの少女である。米ソ冷戦のさなか、アメリカ史上最年少の親善大使として有名になった。
メイン州のホールトンという小さな町で、父アーサーと母ジェーンのもとに生まれ、カナダとの国境に近いこの町で育った。5歳のときには、エリザベス2世にイギリス王室への敬意を表す手紙を出している。1980年に同じメイン州のマンチェスターへ引っ越し、父は大学で文学を教え、母は州政府でソーシャル・ワーカーとして働いた。1982年11月、ユーリ・アンドロポフがブレジネフの後任としてソ連共産党書記長に就任すると、西側のメディアは一面で大きく取り上げ、その多くは西欧社会の安定への新たな脅威として否定的に伝えた。当時は、米ソが宇宙空間からの兵器の開発を進め、ソ連の中距離ミサイルの配備に対抗してアメリカもミサイルをヨーロッパに配備するなど、緊張が高まっていた。サマンサは、アンドロポフが表紙を飾った週刊誌を見て、母に「そんなに皆彼のことを恐れているなら、なぜ誰も本人に直接、戦争をするつもりがあるかどうか聞かないのだろう?」と尋ねた。母が「じゃあ、あなたが聞いてみたら?」と答えると、10歳の彼女はアンドロポフに手紙を書いた。
手紙には、新しい書記長への祝いの言葉に続けて、核戦争を心配していること、戦争をするかどうか、もししないなら、どう阻止するつもりかを尋ねる言葉があった。この手紙はソ連の新聞『プラウダ』に掲載されたが、返信が来なかったため、在米ソ連大使に手紙で問い合わせたところ、1983年4月26日にアンドロポフから返信が届いた。返信は、彼女をマーク・トウェインの小説に登場する少女になぞらえ、ソ連の人々は戦争が起こらないよう努力していると述べ、ナチス・ドイツの攻撃の惨禍を振り返り、ソ連は核兵器の先制使用を絶対にしないと宣言していると記した。その上で、両親の許可があれば、ソ連に招待したいと結んでいた。
この手紙を受けて、メディアの過熱報道が起きた。サマンサは、米国の大物ニュースキャスターや司会者のインタビューを受け、ニュース番組に連日登場した。1983年7月7日に、両親とモスクワへ旅立ち、アンドロポフの招待客として2週間を過ごした。モスクワ、レニングラード、クリミア半島のキャンプを訪れ、キャンプでは、用意された高級な部屋を断り、ソ連の子どもたちと同じ部屋に滞在した。しかしアンドロポフは体調を著しく崩しており、直接会うことはできず、電話で言葉を交わした。彼は約7か月後の1984年2月9日に、腎不全で死去した。帰国すると、メイン州で熱狂的に迎えられたが、批判的な人々は、本人にその意思がなくても、ソ連の宣伝に利用されていると主張した。1983年12月には、日本に招かれ、中曽根康弘総理と会い、神戸の国際子供シンポジウムに参加した。著書『ソビエト連邦への冒険』を出し、1984年にはテレビ番組の司会を務め、1985年には連続ドラマに主演した。
1985年8月25日、撮影を終えて、父とともに航空機で自宅に戻る途中、着陸時に滑走路の手前の木々に激突し、乗客6名と乗員2名の全員が死亡した。この事故について多くの憶測が飛び交い、ソ連では故意に墜落させられたのではないかという記事も出たが、正式な調査報告書は、不正や故意の可能性を退けた。
同じ年に亡くなった人物
- カス・ダマト (1985年没)
- ロバート・サーティース (1985年没)
- ロン・ノル (1985年没)
- クーティ・ウィリアムス (1985年没)
- レナート・カステラーニ (1985年没)
同じ地域に関係する人物
- キャスパー・ワインバーガー (2006年没)
- ダン・フォーゲルバーグ (2007年没)
- ロバート・インディアナ (2018年没)
- ハンニバル・ハムリン (1891年没)
- George Dole (1928年没)