伝記
チャリング・チャールズ・クープマンスは、1910年8月28日、オランダのスフラーフェラントに生まれた数学者・経済学者である。のちにアメリカ合衆国に移った。父はシュールド、母はヴィツケ・ファン・デル・ゼーで、ミドルネームのチャールズは、父の名に由来するらしい。弟の一人は神学者のヤン・クープマンスで、1940年、ドイツ占領の初期に、ユダヤ人の将来について警告する小冊子「危うく手遅れ」を書き、3万部が広く配られた。ヤンは1945年の終戦間近、アムステルダムで人質の処刑を窓越しに目撃し、流れ弾で致命傷を負ったという。姓のオランダ語読みは「コープマンス」に近い。
1927年にユトレヒト大学に入って数学を専攻したが、3年後の1930年に理論物理学へ転向した。1932年に物理学と数学の学士号を、1933年に修士号を取った。1934年には、分子の第一イオン化エネルギーと電子親和力に関する「クープマンスの定理」を発表した。この定理は、量子化学でよく知られている。1933年ごろにヤン・ティンバーゲンと知り合い、アムステルダムに移って、その指導のもとで数理経済学の研究を始め、計量経済学や統計学にも研究の手を広げた。1936年にライデン大学から、物理学と数学の博士号を得た。論文の題は「経済的時系列の線形回帰分析」だった。同年10月にトゥルース・ワンニンヘンと結婚し、息子と二人の娘をもうけた。1936年から1940年は、ジュネーブの国際連盟の経済金融部門で働き、『タンカー運賃率とタンカー建造』などを出版した。
1940年にアメリカへ移り、ワシントンにあった政府機関で、戦時中を統計学者として過ごした。そこで最適な経路選択に重点を置いた交通経済学を発表した。次いでシカゴへ移り、シカゴ大学に付属していたコウルズ委員会に加わった。1946年にアメリカ市民権を得て、1948年にコウルズ委員会の所長となった。1950年には計量経済学会の会長になった。1950年代にシカゴ大学の経済学部がコウルズ委員会に敵対的になると、1955年に、コウルズ家を説得して本拠をイェール大学に移し、コウルズ財団とした。同大学の教授として、最適成長やアクティビティ分析の研究を続けた。
最大の業績は、ノーベル賞の受賞理由にも挙げられた、アクティビティ分析の開発である。ある商品1単位をつくるために必要な生産要素の技術的な組み合わせをアクティビティと呼び、伝統的な経済学では組み合わせが無限にあるとされるのに対し、現実には有限だと考えて、有限のアクティビティをもとに、線形計画法を用いて最適な資源配分の条件を具体的に求め、最適生産計画や最適経済計画の問題に応用しようとするものである。1975年、資源の最適配分に関する理論への貢献により、レオニード・カントロビッチとともにノーベル経済学賞を受賞した。1978年にはアメリカ経済学会の会長を務め、1981年にイェール大学を退職して名誉教授となった。シカゴでは、ミルトン・フリードマンと、「計画なき理論」か「理論なき計画」かをめぐる論争も交わした。才能ある音楽家で作曲家でもあり、音楽は終生変わらぬ趣味であった。1985年2月26日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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