伝記
金容植は、1910年7月25日、現在の北朝鮮にあたる黄海道信川に生まれたサッカー選手であり、指導者である。第二次世界大戦前は日本代表として、戦後は韓国代表の選手、コーチ、監督として活躍し、「韓国サッカーの父」と称されている。本貫は金海金氏で、父は牧師で、比較的裕福な家庭だった。ただし、父は朝鮮神宮への参拝を拒否するなどして、何度も投獄されたことがあった。生まれた翌月には韓国併合があり、本人も日本式の名前で呼ばれる立場に置かれた。7、8歳のころからボールを蹴りはじめ、13歳で京城府(現在のソウル特別市)に引っ越した。1926年に儆新中学校に入学し、サッカーを本格的に始めた。
1929年の光州学生事件では、デモの先頭に立って活動し、警察の指名手配を受けて、儆新中学校を退学処分となった。1930年、サッカーの技量を見込まれて京都府内の中学に入学したが、約2か月で退学した。同年に入学した普成専門学校(現在の高麗大学校)も退学し、儆新中学校への復学を希望したが、かなわなかった。1930年には、陸上競技会に出場して、1500メートルと5000メートルで優勝している。1932年に普成専門学校に再入学し、在学中の1935年には、チームの一員として第15回全日本総合蹴球選手権大会(現在の天皇杯)で優勝した。同年、スピードスケートの選手として全朝鮮大会に出場し、1500メートルと1万メートルの2種目で優勝した。
1936年4月、ベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選ばれた。普成専門学校の教授らの勧めもあって、朝鮮から唯一の参加者だった。同年6月20日に東京を出発し、汽車を乗り継いで7月3日にベルリンに到着した。7月27日の試合で、日本代表として初めて出場した。のちに「ベルリンの奇跡」と呼ばれるスウェーデン戦と、イタリア戦の2試合に先発で出場した。日本はスウェーデンに3対2で勝ち、イタリアには0対8で敗れた。ベルリン五輪後も、紀元二千六百年奉祝東亜競技大会(1940年)などに日本代表として出場し、日本代表としては3試合に出場した。
第二次世界大戦後は韓国代表となり、1948年のロンドンオリンピックでは、韓国代表の選手兼監督として2試合に出場した。この2試合は、メキシコに5対3で勝ち、スウェーデンに0対12で敗れた。1952年10月に、高麗大学校のOBチームの一員として出場した試合をもって、現役を引退した。1954年のワールドカップでは韓国代表監督を務めた。予選で、東京で日本と2試合を戦い、5対1で勝って、2対2で引き分けた。韓国の大統領が日本人の入国を認めなかったためである。本大会では、ハンガリーに0対9、トルコに0対7で敗れたと伝えられる。その後は国内のクラブチームの監督などを務めた。1963年に第1回の大韓民国体育賞を受けた。1971年には、退学処分を受けていた儆新中学校から、名誉卒業生として証書を授与された。1982年2月には、ハレルヤFCの監督として来日した。1985年3月8日にソウルで亡くなり、死後、体育勲章猛虎章が授与された。2005年には、韓国サッカー名誉の殿堂入りを果たし、ソウルワールドカップ競技場にある記念館には胸像が飾られている。
同じ年に亡くなった人物
- ドナルド・ヘッブ (1985年没)
- サイモン・クズネッツ (1985年没)
- アフェト・イナン (1985年没)
- エリック・フェーゲリン (1985年没)
- マンフレッド・ヴィンケルホック (1985年没)