伝記
ジョン・フランクリン・エンダースは、1897年2月10日、アメリカのコネティカット州ウエストハートフォードに生まれたウイルス学者、微生物学者である。父は銀行家のジョン・オストロム・エンダース、母はハリエット・ホイットモアで、4人の子の長男だった。家の暮らしは平均以上だったと、本人も語っている。ハートフォードのノア・ウェブスター・スクールを出て、1912年から1915年まで、ニューハンプシャー州コンコードの寄宿学校セント・ポール・スクールで学んだ。1915年にイェール大学に入学したが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に加わると、翌年にかけて軍に入り、飛行機の操縦を習った。そののち3年間、飛行教官を務めた。
戦後はイェール大学に戻って英文学の学士号を得た。1920年から翌年にかけて不動産業を試みたが、英語を教えたいと考えてハーバード大学に入り、1922年に英文学と文献学の修士号を取った。それから3年ほど、文献学の博士論文を書こうとしたが、題材を決められず、あまり熱意も持てなかったという。この時期は、無駄ではなかった。同居した若い講師ヒュー・ウォードは、ハーバード大学の細菌学・免疫学の教室にいて、親しくなったエンダースはよく彼の実験室に通い、その研究に魅了されたのである。1927年から細菌学の博士課程に入り、ハンス・ジンサーの指導を受けて、1930年にハーバード大学で博士号を取得した。1927年にサラ・ベネットと結婚して二人の子をもうけたが、サラは1943年に亡くなり、1951年にキャロリン・キーンと再婚した。
博士号を取ってからは、生涯ハーバード大学で研究を続けた。当初は細菌の毒力と宿主の抵抗力を調べ、やがてウイルス学に進んだ。1939年にはトーマス・ウェラーらとともに、ニワトリの組織培養でウイルスを増やす計画を始めた。彼らが最初にウイルスを細胞培養で増やしたわけではないが、それを日常的に行ったのは彼らが最初で、エンダースの研究室は、試験管内でのウイルス研究の「現代」を開いたとされる。第二次世界大戦中は、陸軍長官の伝染病についての民間顧問を務めた。1946年にボストンの小児病院に、感染症研究の実験室をつくるよう頼まれ、1947年から1972年まで、同病院の感染症研究部門の部長を務めた。
1949年、エンダースはウェラー、新しい同僚のフレデリック・ロビンスとともに、ポリオウイルスが様々な組織の培養細胞で育つことを発見した。それまで神経細胞でしか培養できなかったポリオウイルスの大量培養が可能になり、ジョナス・ソークやアルバート・セービンがポリオワクチンを開発するために必要な量を増やせるようになった。この功績により、3人は1954年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。のちには、麻疹のワクチンの開発を進め、ワクチンは1963年にアメリカで認可された。その後は、癌と、腫瘍を起こすサルのウイルスの研究に取り組み、最後の4年間は、エイズの研究を行った。1967年に公式には退職したが、その後も働き続けた。1985年9月8日、コネティカット州ウォーターフォードで亡くなった。
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