伝記
オーソン・ウェルズは、1915年5月6日にウィスコンシン州ケノーシャで生まれた、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優である。子供のころは詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児だったが、傍若無人な性格で、周りとの人間関係に問題があった。母は9歳のときに亡くなり、父は発明に没頭するアルコール依存症の奇人であった。父の勧めで、イリノイ州ウッドストックにある比較的自由な校風のトッド校に通い、ここで初めて演劇を制作し、俳優として出演した。肥満児のためにいじめを受けると、トイレに駆け込んで赤いペンキを顔に塗り、大怪我をした演技で相手を狼狽させ、以後、誰も彼をいじめようとしなくなったという。
1931年、16歳でアイルランドのダブリンのゲート劇場に脇役として舞台デビューを果たし、1934年にはアメリカに戻って、ラジオドラマのディレクター兼俳優となった。この年、女優で社交界の名士のヴァージニア・ニコルソンと結婚した。大不況が続く1936年、アメリカ政府による演劇人救済のための連邦劇場計画が始まると、注目され、21歳でニューヨークのハーレム地区で、アフリカ系アメリカ人の俳優やスタッフとの演劇制作に、演出家として赴任した。敬愛するシェイクスピアの『マクベス』を、舞台をハイチの19世紀初頭の圧政者の王宮に移して演出し、公演が始まると大ヒットとなった。1937年に手がけたミュージカル『ゆりかごは揺れる』では、連邦劇場計画が予算を理由に制作を中止させ、俳優たちは組合から舞台に立つことを禁じられ、劇場も閉鎖された。そこで共同制作者のジョン・ハウスマンとともに、観客を別の劇場へ行進させ、俳優や演奏者を観客席に座らせてピアノに合わせて立ち上がらせ、劇を客席の真ん中で上演した。この上演は伝説となった。
ウェルズとハウスマンは劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、シェイクスピアの斬新な解釈などの実験的な公演で高く評価された。1938年10月30日には、H・G・ウェルズのSF小説『宇宙戦争』の翻案をラジオで放送した。舞台を現代のアメリカに変え、臨時ニュースで始め、目撃者の回想によるドキュメンタリー形式にするなど、前例のない構成と迫真の演技で放送した。かつては、聴取者が火星人の襲来を事実と信じてパニックが起きたといわれたが、近年の研究では、パニック現象は確認できず、事実と信じた聴取者はほとんどいなかったことがわかっている。それでも、この放送をきっかけにウェルズの名が広く米国のメディアに取り上げられたのは確かで、番組はスポンサーが付くことになった。
ラジオの話題性を買ったハリウッドのRKOから招かれ、全権を委託されて映画の製作を任された。第一候補だったコンラッドの『闇の奥』は予算がかかり過ぎるとして断念し、代わりに製作した『市民ケーン』は、新聞王ハーストを模した人物の人生を暴く内容が物議を醸し、ハースト系の新聞による全面攻撃を受けて、興行的に惨敗した。しかし、ディープフォーカスやローアングルを多用した画期的な作品として、評価は現在に至るまで非常に高い。興行の失敗で発言力は低下し、第2作『偉大なるアンバーソン家の人々』はずたずたにカットされて公開された。以後は、自身の企画がなかなか実現できず、テレビなどに拠点を移すかたわら、「存在感で見せる怪優」に活路を見出した。『第三の男』のハリー・ライム役は有名である。映画製作への情熱を生涯失わず、1985年10月10日、ハリウッドの自宅で、糖尿病と心臓発作のため70歳で死去した。生涯に3度結婚しており、それぞれの妻との間に娘が1人ずついる。
同じ年に亡くなった人物
- ルース・ゴードン (1985年没)
- サイモン・クズネッツ (1985年没)
- ロバート・サーティース (1985年没)
- ジャック・メディカ (1985年没)
- フランコ・フェラーラ (1985年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジーン・ハーロウ (1937年没)
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- アンダース・ハウゲン (1984年没)
- ラルフ・マクウォリー (2012年没)