伝記
ジェームズ・ネヴィル・メイソンは、1909年5月15日にイングランドのウェスト・ヨークシャー州ハダースフィールドで、3人兄弟の末っ子として生まれた俳優である。父ジョン・メイソンは裕福な羊毛商人で、仕事でフランスやベルギーによく出かけた。母メイベルは、並外れて教養のある人で、ロンドンで学んで芸術家として働き始めたが、ヨークシャーに戻って自分の父を世話した。息子たちには、気遣い深く愛情をこめて接したという。家は敷地の広い邸宅で、現在その向かいの小さな住宅地は「ジェームズ・メイソン・コート」と名づけられている。マールバラ・カレッジで教育を受け、ケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジで建築を専攻し、最優等で学位を得た。在学中の余暇に巡業劇団に関わるようになったが、正式な演技の訓練は受けておらず、最初は遊びのつもりだった。
建築家を目指したが、折からの不況で軌道に乗らず、もう一つの夢であった演劇に関わった。1931年にオールダーショットの舞台でデビューし、プロとして歩み始めた。クロイドンの舞台を経て、1933年にロンドンにデビューし、まもなくロンドンのオールド・ヴィック劇場や、ダブリンのゲート劇場にも参加した。1933年に、アレクサンダー・コルダが、メイソンに小さな役を与えたが、撮影の3日目に降ろした。1935年に映画にデビューし、1935年から1938年は、多くの低予算映画で主演した。第二次世界大戦中は良心的兵役拒否者として登録し、家族は長いあいだ彼と絶縁した。1943年に変質者の主人公を演じた『灰色の男』や、1945年の、女の横っ面をひっぱたく場面が物議を醸した『第七のヴェール』が出世作となった。1946年のキャロル・リード監督の『邪魔者は殺せ』で人気は決定的となり、「ベルベット・ボイス」と呼ばれた柔らかい声が、激情とともに太く変化していく怖さと、几帳面な演技で、批評家に絶賛された。この頃に、デイリー・メール紙によって最もポピュラーなイギリス俳優に選ばれた。
1947年にブロードウェイにデビューし、ハリウッドにも進出して、『砂漠の鬼将軍』『ジュリアス・シーザー』『スタア誕生』などで幅広いファンをつかんだ。自分の気に入らない役は絶対に引き受けないと公言するほどの自信家で、当時のハリウッドには、メイソンのような屈折したニヒリストを演じきれる俳優がいなかった。1954年には『スタア誕生』でゴールデングローブ賞を受賞した。役の善悪を問わず、主役から脇役まで自在に演じ、1984年の死去までに出演作は100本以上に及ぶ。重厚な文芸映画から『海底二万哩』のようなSF映画まで、ジャンルが多岐にわたることが、かえって俳優としてのキャリアに災いし、ローレンス・オリヴィエと並び称されながら、大きな賞とは縁がなかった。アカデミー賞に『スタア誕生』『ジョージー・ガール』『評決』でノミネートされながら、一度も受賞せず、「無冠の名優」と呼ばれる。
1940年に共同で脚本を書いたことのあるパメラ・ケリノと結婚し、一男一女をもうけたが、1964年に離婚した。1971年に、女優クレリッサ・ケイと再婚した。晩年はスイスに移り、1984年7月27日にローザンヌの自宅で、心臓発作のため亡くなった。隣村に住んでいた晩年のチャールズ・チャップリンと親交があり、遺灰はその墓の近くに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- カール・コリ (1984年没)
- エドワード・アンドリュース (1984年没)
- イエジ・ポピエウシュコ (1984年没)
- Alvaro Lopes Cancado (1984年没)
- ジョゼフ・ロージー (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- Alexandre Vinet (1847年没)
- フランソワ・ユーベル (1831年没)
- カール・ヤーコプ・ブルクハルト (1974年没)
- マフムード・タイムール (1973年没)
- ゼイン・アル=シャラフ・タラール (1994年没)