伝記
ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフは、1905年5月24日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月11日)に生まれ、1984年2月21日に没したソ連の小説家である。レフ・トルストイにつながるロシア文学の伝統を受け継ぎ、ソビエト文学を代表する地位を占めた。ドン川流域に根ざした作品を描き、代表作『静かなドン』は、ロシア革命前後のドン・コサックの一族の過酷な運命を描いた大河小説である。1965年にはノーベル文学賞を受けた。
南ロシアのドン川河畔のコサックの村、ビョーシェンスカヤの商人の家庭に生まれた。父は小農や牛の商人、製粉業者などを兼ねた下層中産階級のロシア人で、母は、コサックの未亡人でウクライナの農民の出であり、息子と手紙をやりとりするようになってから読み書きを覚えた。一家はドン・コサックではなく、「よそ者」と呼ばれる貧しい層に属していた。15世紀から自治と自由を守り続けたコサック社会に強い影響を受けて育った。中学校在学中にロシア革命が起こり、1918年に13歳でボリシェヴィキ側に加わった。赤衛軍に属して、革命委員会の食糧調達係としてドン地方を転戦し、その体験を文学作品として表現するため、作家になろうと決意した。
1922年にモスクワへ出て、石工や人夫などとして働きながら文学を学んだ。最初に発表したのは、1923年の風刺的な記事である。1924年に『ほくろ』で文壇にデビューし、同じ年にドンに帰郷して、創作に専念した。結婚して、二人の娘と二人の息子をもうけた。1926年に短編集『ドン物語』を刊行し、続いて『るり色の曠野』を発表して、作家としての地位を確立した。
同じ1926年から、4部の大長編『静かなドン』の執筆を始め、1940年までの14年を費やして完成させた。描写が中立的だったため、発表当時はソ連内で政治的な曖昧さを指摘されたが、1941年の第1回スターリン賞を受賞し、世界的な名声を獲得した。ソビエト文学の最高傑作のひとつといわれる。並行して、1930年代の農業集団化の矛盾と困難を主題とした長編『開かれた処女地』を書き、第1部を1932年に発表し、第二次世界大戦中の中断を経て、第2部が1960年に完結した。戦争によって何もかも失った兵士の人生を描く短編『人間の運命』や、未完の長編『彼らは祖国のために戦った』もある。
第二次世界大戦中は従軍作家として前線に赴き、『プラウダ』紙などに多くのルポルタージュを発表した。ナチスの残虐さを描いた短編『憎しみの科学』も発表している。1942年にはビョーシェンスカヤが爆撃を受け、母が亡くなった。1937年に最高会議代議員に選ばれ、1939年からソ連科学アカデミー会員となった。ノーベル賞の賞金で地元に学校を建て、1966年には日本を訪れた。
『静かなドン』の原作者をめぐっては、第1・2巻が成功した1928年に盗作の噂が現れた。ショーロホフは、最初の三巻の原稿と第四巻の構想を提出して著者であることを証明しようとし、1929年に特別委員会が著者であると認めた。1960年代にソルジェニーツィンらが再び疑いを唱えたが、1984年に、ノルウェーの学者らが文の長さの統計分析を行い、ショーロホフが著者である可能性が高いと示したとされる。1969年以降は執筆をほぼ休止して、ビョーシェンスカヤに住み続けた。1984年に咽頭がんで死去し、その年のうちに、町を含む地区の名が「ショーロホフ」に改められた。
同じ年に亡くなった人物
- テッブス・ロイド=ジョンソン (1984年没)
- ピーター・ウォーカー (1984年没)
- ルイ・レアール (1984年没)
- Joseph Gonzales (1984年没)
- ウィリアム・A・イーガン (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドル1世 (ロシア皇帝) (1825年没)
- オレグ・ポポフ (2016年没)
- ネストル・クコリニク (1868年没)
- Nikolay Ivanov (1919年没)
- ドミトリー・イワノフスキー (1920年没)