伝記
スタニスワフ・マルチン・ウラムは、1909年4月13日、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったルヴフ(現在のウクライナのリヴィウ)に生まれた数学者である。裕福なポーランド系ユダヤ人の家で、銀行家や実業家、専門職の人々が多い一族だった。父ユゼフは弁護士、母アンナはストルイの出で、叔父のミハウは建築家で、請負業者や材木業者でもあった。1916年から1918年まで、ウラム家はウィーンに一時、暮らした。帰ってくると、ルヴフはポーランド・ウクライナ戦争の中心となり、ウクライナ軍の包囲を受けた。1919年にギムナジウムに入り、1927年に卒業した。
リヴィウ工科大学でカジミェシュ・クラトフスキとステファン・バナフらに数学を学び、1932年に修士号、1933年に博士号を取得した。20歳の1929年には、最初の論文を発表している。1931年から1935年にかけて、ヴィリニュス、ウィーン、チューリッヒ、パリ、ケンブリッジを訪ね、ハーディやチャンドラセカールにも会った。ルヴフ数学学派の一員で、仲間は「スコットランド・カフェ」で長時間議論し、問題を書き留めた。そのノートの「スコットランド人の本」に、1935年から1941年に記された193問のうち、ウラムは単独で40問を寄せた。1957年には、戦争を生き延びたその本の写しをシュタインハウスから受け取り、英訳している。
1935年、ワルシャワで知り合ったジョン・フォン・ノイマンの招きで、プリンストン高等研究所を訪れた。1936年から1939年まで、夏はポーランドで、学期中はハーバード大学で過ごし、エルゴード理論の重要な結果を示した。1939年8月、17歳の弟アダムとともに、最後の渡米をした。第二次世界大戦の前夜にポーランドを脱出したため、残りの家族はホロコーストで亡くなったとされる。1940年にウィスコンシン大学の助教授に就任し、1941年にアメリカ市民権を得た。1943年には、ハンス・ベーテの招きで、原爆開発のためのマンハッタン計画に加わり、ロスアラモス研究所で、爆縮型の兵器に必要な爆薬レンズの流体力学的計算に当たった。
戦後はいったん南カリフォルニア大学の准教授になったが、1946年にロスアラモスに戻り、水爆の開発に携わった。女性の計算員たちの助けを得て、エドワード・テラーの「スーパー」爆弾の設計がうまくいかないことを見いだした。1951年1月、ウラムとテラーは、水爆を爆発させる基本的な機構を創案し、「テラー=ウラム配置」と呼ばれて、すべての水爆の基礎となった。核爆発を宇宙ロケットの推進に使う「オリオン計画」も、彼の発案である。1965年からはコロラド大学の教授を務め、没するまでその地位にあった。
数学の業績は、集合論、測度論、トポロジー、エルゴード理論など多岐にわたる。電子計算機の発達により、解が分からない関数にも統計的な方法を適用できると気づき、モンテカルロ法を考案した。名前を付けたのはノイマンである。セル・オートマトンの分野の創始や、自然数を渦巻状に並べたときの素数のパターン「ウラムの螺旋」の発見でも知られる。病的なほど試験が嫌いだったが、独創的な論文を書いていたので、教授たちは寛大だったという。数学は「空気を通して耳から習得した」と語っている。1984年5月13日に世を去った。自伝『数学のスーパースターたち』が日本語にも訳されている。
同じ年に亡くなった人物
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- ノーマン・ペティ (1984年没)
- 呉国楨 (1984年没)
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- ピョートル・カピッツァ (1984年没)
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