HISTORICAL PERSON · 1984年没

ドミトリー・ウスチノフ

ソ連の政治家。戦時の軍需産業の疎開と増産体制の構築に功績を上げ、ブレジネフ政権以降の国防大臣を務めた。ソ連邦元帥。

生涯
1984年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(サマーラ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ドミトリー・フョードロヴィッチ・ウスチノフは、1908年10月30日、ロシア帝国のサマーラの労働者の家庭に生まれたソビエト連邦の政治家で、ソ連邦元帥である。職業軍人ではない。ロシア内戦の飢えのなか、病気の父がサマルカンドへ向かい、少年ながら一家の長となったが、1922年に父が亡くなった。1923年に母とともにイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク近郊の町に移り、製紙工場で機械工として働いたが、1925年には母も亡くした。1927年11月に共産党に入党し、いくつかの職場を経て、レニングラードの軍事機械大学に入学して、設計技師の資格を得た。1934年に卒業して研究所に勤め、1937年には軍事工場「ボリシェビーク」の企業長となった。

独ソ戦が始まる1941年6月の直前に、32歳のウスチノフは、スターリンによって軍需工業人民委員に抜擢された。ドイツ軍によってレニングラードが包囲されると、ソ連の軍需産業を守るため、数週間でウラル地方への疎開を実現した。兵器の大増産でも抜群の事務能力を発揮し、1942年6月に、社会主義労働英雄の称号と、文官ながら大将相当の称号を授けられた。

戦後は、ドイツのミサイル計画を接収し、ソ連のミサイルと宇宙の計画の出発点とする役割を担った。1952年10月に党中央委員会委員となり、1953年にスターリンが死去して、軍需省と航空産業省が統合されると、新設の国防工業相に任命された。1957年12月にはロケット・兵器・原子力産業を担当する副首相となり、ミサイルとロケットの開発を推進して、1961年4月のガガーリンの人類初の宇宙飛行を成功させた功で、再び社会主義労働英雄の称号を得た。1963年には第一副首相となった。1964年10月にフルシチョフが失脚してブレジネフが党第一書記になると、軍事工業部門に復帰し、1965年に党政治局員候補、党中央委員会書記(国防産業担当)となって、1976年10月まで務めた。戦略爆撃機と大陸間弾道ミサイルの開発も担当し、アメリカに拮抗する核戦力を築いた。

1976年4月、国防相のグレチコ元帥が在職中に亡くなると、後任として文民で初の国防相に就任した。同年7月30日にはソ連邦元帥の称号を授与された。1979年、アフガニスタンへの軍事介入を決める政治局会議に参加し、KGB議長のアンドロポフとともに介入を強く主張して、同年12月24日、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。1982年のアンドロポフ、1984年のチェルネンコの書記長選出に力を貸し、スースロフの死後は、「クレムリンのキングメーカー」と恐れられた。特にチェルネンコが健康問題を抱え、軍事の経験も乏しかったため、国防相として穴を埋め、影響力を保った。1983年9月の大韓航空機撃墜事件では、のちにロシアのエリツィン大統領が公開した文書によると、アンドロポフに、ブラックボックスを公開すべきでないと進言したとされる。

1984年11月7日の革命記念パレードには姿を見せなかった。10月下旬に肺炎を患い、大動脈の緊急手術を受けていたのである。その後、肝機能と腎機能が低下し、心不全に苦しんだ。同年12月20日、モスクワで76歳で死去した。党や政府の指導者以外では珍しく、公式の服喪期間が設けられ、赤の広場で国葬が執り行われた。遺骨はクレムリンの壁に葬られ、ウスチノフは、そこに遺骨が葬られた最後の人物とされる。イジェフスク市は一時、彼にちなんで「ウスチノフ市」と改名されたが、1987年に元の名に戻された。

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