HISTORICAL PERSON · 1543年没

ハンス・ホルバイン

アウクスブルク生まれのドイツ・ルネサンスの画家。バーゼルで活動後、エラスムスの紹介でイングランドへ渡った。国際的な肖像画家として名高く、木版画『死の舞踏』でも知られる。

生涯
1543年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
ドイツ連邦共和国(アウクスブルク)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ハンス・ホルバインは、1497年の末か1498年の初めごろ、南ドイツのアウクスブルクに生まれ、1543年にロンドンで没した、ルネサンス期のドイツの画家である。後にイングランドで活動し、国際的に活躍した肖像画家として著名であるとともに、木版画シリーズ『死の舞踏』の作者として、版画史上も重要な作家である。アナモルフォーシスを使う画家としても知られ、『大使たち』(1533年)の手前に描かれた歪んだ物体は頭蓋骨で、その一例とされる。同名の父ハンスと兄アンブロージウスも美術史上に名を残す画家で、区別のため「小ホルバイン」と呼ばれる。

父ハンスは、末期ゴシックとルネサンスの過渡期に位置する画家で、アウクスブルクに大きな工房を構え、バーゼルでも活動して、祭壇画などに多くの傑作を残した。今日では同名の息子の名声に隠れた存在となっている。修業時代には、当時の画家の常として各地を遍歴した。1515年ごろ、兄とともにスイスのバーゼルに移り、当地で最も名の知れた画家ハンス・ヘルプストの工房で徒弟となった。兄弟は書物の挿絵画家として、印刷業者のために木版や金属版の下絵を手がけた。同じ年に、エラスムスの『痴愚神礼賛』の余白に、ペン画を描き加える仕事を頼まれ、その素描は若い画家の機知と人文主義的な傾向を早くに伝えている。1516年制作の『バーゼル市長ヤーコプ・マイヤー夫妻の肖像』は、18歳ごろの若描きながら、すでに成熟した技巧を見せている。1517年には父とともにルツェルンの商人の家の壁画に取り組んだ。この間、1526年にロンドンへ渡るまで、バーゼルの市長や富裕な市民を後援者に、宗教画や肖像画を多数手がけた。当時のバーゼルは文化の一大中心地で、エラスムスなどの人文主義者が集まっていた。

1526年、ホルバインはエラスムスの紹介で、トマス・モアを頼ってロンドンへ渡った。モアを中心とする人文主義者の輪に迎えられ、すぐに高い評価を得た。1528年にいったん帰国するが、1532年に再びロンドンへ渡り、1535年から36年ごろ、年30ポンドの契約でヘンリー8世の宮廷画家となった。王自身の肖像画をはじめ、宮廷の関係者の肖像画を多数製作した。宮廷画家の務めとして、外国にいる王の妃候補者の肖像画も描き、『アン・オブ・クレーヴズの肖像』と『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』が現存している。王は結局アンナ・フォン・クレーフェと結婚したが、この結婚生活はわずか6か月しか続かなかった。ホルバインの描いたアンナのイメージが実際の本人と違っていたため、王の不興を買ったとも言われ、その後は目立った作品を残していないとされる。1543年、失意のなかでペストにより、ロンドンで没した。

その肖像画は、ヘンリー8世やトマス・モア、エラスムスといった人々を冷めた筆致で描き、表情のほか、身分や職業を示す細かい道具立て、毛皮やビロードの質感描写に見るべきものがある。一方、1528年から1529年ごろにバーゼルへ戻っていた間に描いた妻子の肖像画には、公的な肖像画とは全く異なる作風が見られ、悲しげな表情は、ロンドンで単身生活を送った画家の自責の念の表れとみるのが通説となっている。

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