伝記
プリーディー・パノムヨンは、1900年5月11日、アユタヤで、米商人ナイ・シアンの子として生まれたタイの政治家で、プラディットマヌータム男爵とも称される。首相を務めたほか、タンマサート大学の創立者でもあり、「タイ民主主義の父」と呼ばれる。自叙伝によれば、5代前の祖先は広東の澄海県の出身で、アユタヤ朝最後の王の治世のシャムに来て、中華系の王タークシンのもとで傭兵として働き、戦死した。曽祖父はラーマ2世の治世の1814年にシャムへ移民し、中国とタイの料理技術を組み合わせた菓子を売って暮らした。ナイ・シアンは、1866年に姓をタイ風のパノムヨンに改めた。プリーディーは5人兄弟の上から2番目で、父には妾腹の子も2人いた。
法務省法律学校を19歳で卒業して弁護士資格を取得し、政府の奨学金でパリ大学に留学して、法学と政治学を学んだ。1927年にシャムへ帰国して法務省に勤め、1929年にプラディットマヌータム男爵の欽錫名を下賜された。しかしフランス留学の頃から、絶対王政を廃し、立憲君主制への移行を目指す官僚と軍人約50人を組織しており、その中には、生涯のライバルとなるピブーンソンクラームも含まれていた。1932年6月24日、彼が指導する人民党は、電光石火のクーデターで150年に及ぶ絶対王政を終わらせた(立憲革命)。彼はこの憲法を起草し、ラーマ7世に署名させて、国務大臣に就任した。
ところが政権をとるとまもなく路線の対立が表面化した。契機は、彼の「経済計画大綱」だった。フランス留学期に社会主義の影響を受けた彼が、土地の国有化などで経済活動を国家管理し、華僑資本からの民族経済の独立を期したものだった。この政策は国王から強い非難を受け、人民党内の穏健派も反対した。1933年4月、マノーパコーン首相が国会を停止し、共産主義を取り締まる法律を作ると、彼はフランスへ逃れた。同年6月のクーデターで内閣が倒れると、後継の内閣に呼び戻され、内務大臣として入閣し、以後は外務大臣、財務大臣を歴任した。1934年にはタンマサート大学を創立した。外相の在任中には、12か国と治外法権の撤廃条約を結び、タイは完全な独立を回復できたとされる。
第二次世界大戦では、日本軍のタイ進駐が進む中、反日的な立場をとった。1942年1月にピブーン首相が英米へ宣戦を布告したとき、摂政の一人だった彼は行方をくらまして署名せず、これは後に宣戦布告が無効だという主張の根拠となった。反日地下組織「自由タイ」の網を築き、連合国との連絡も担った。1946年3月には首相となったが、6月9日に国王ラーマ8世が宮殿で死んでいるのが発見され、その嫌疑をめぐるスキャンダルに見舞われて、辞職した。1947年11月の陸軍のクーデターで逃亡し、1949年2月の政権奪回の試みも失敗して、男爵位も剥奪された。戦後はホー・チ・ミンのベトナム独立運動を支援しており、冷戦が深まる中で、タイの共産党を支援しているのではないかと疑われた。中国へ亡命して21年を過ごし、毛沢東や周恩来らと親交を深め、1970年にフランスに渡った。1983年5月2日、パリ近郊の自宅で亡くなった。
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