伝記
アーサー・ケストラーは、1905年9月5日にブダペストで生まれた、ユダヤ系のジャーナリスト、小説家、政治活動家、哲学者である。ユダヤ系ハンガリー人の父とオーストリア人の母の間に生まれ、出生時の名はケストレル・アルトゥールといった。ドイツ語圏の出身である母がハンガリー語の習得を拒んだことや、第一次世界大戦期に一家でウィーンに移住したことから、『真昼の暗黒』(1940年)の前後まで、ドイツ語で著述した。それ以後は英語で書いた。父は実業家で家は裕福だったが、大戦で事業の継続が難しくなり、ケストラーがウィーン工科大学に入るころには苦学を強いられた。学生時代にはシオニストの決闘クラブに入り、登山に熱中した。大学を中退し、シオニズムへの関心から1926年にパレスチナに入植したが、思わしい結果にはつながらなかった。
現地でドイツ最大の通信社の職を得たのがきっかけで、1929年にフランス支局の特派員となり、翌年には自然科学の知識を認められて、科学欄の編集長としてベルリン本社に配属された。ここでナチスの台頭に直面し、終戦まで一貫してナチスを批判した。同じころ、マルクスやエンゲルスの思想に出会い、ドイツ共産党に入った。やがて通信社を解雇され、招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的な独裁体制を目の当たりにして、1933年にフランスに亡命した。その後スペイン内戦までは、食事にも事欠く暮らしを送った。内戦では、英紙の特派員としてフランコの反乱軍の支配地域に二度潜入し、一度目は身分が発覚して脱出したものの、フランコ軍とナチスの協力関係を暴いた。二度目の潜入では捕らえられて死刑を宣告され、4か月拘留されたのち、イギリス政府の介入で救出された。この体験は『スペインの遺書』(1937年)にまとめられている。
第二次世界大戦が始まると、フランスのヴィシー政権に反ナチス的な人物と見なされて、南仏の収容所に収監された。外人部隊に配属されることで収容所を出て、まもなく逃亡してイギリスに帰還した。この経緯は『地上の屑』(1941年)として発表した。『真昼の暗黒』は、ソビエトでの経験や、粛清を逃れてきた知人の証言をもとに、スターリン体制の非人道的な裁判を小説にしたもので、ソビエトへの幻想が消えきらない西欧の知識人に衝撃を与え、一般に最大の業績とされる。この時期にドイツ共産党に離党を通告した。1945年にイギリスに帰化している。
表立った政治活動を控えるようになってからは、自然科学の領域に関心を強めた。1967年の『機械の中の幽霊』では、自ら発案した「ホロン」の概念を提唱し、還元主義への批判を展開して、ニューサイエンスの運動の発端となった。晩年は『偶然の本質』(1972年)に見られるように超常現象にも関心を寄せたが、その意義を理解する者は多くなかった。ユダヤ人については著書『第十三支族』で、アシュケナジムのルーツがユダヤ教に改宗したハザール人であると指摘した。生涯、強い抑鬱状態に悩まされ、晩年は抗うつ薬も使っていた。1983年3月、パーキンソン病と白血病を理由に、妻で長年秘書を務めたシンシアとともに睡眠薬で服毒自殺し、議論を呼んだ。遺書は、痛みから自らを救い出す動機と、妻への謝罪と感謝を記しており、妻の遺書も残されていた。
同じ年に亡くなった人物
- マディ・ウォーターズ (1983年没)
- ヘンリー・M・ジャクソン (1983年没)
- ジークフリート・ミュラー (1983年没)
- カルロ・オルランディ (1983年没)
- ジャン・レイ (1983年没)
同じ地域に関係する人物
- ミハイル・ミハイロヴィチ (1929年没)
- ペトロス・ティス・エラザス (1980年没)
- ストーム・ソーガソン (2013年没)
- ジョン・ダグラス (第9代クイーンズベリー侯爵) (1900年没)
- レスリー・バンクス (1952年没)