伝記
ジョージ・デューイ・キューカーは、1899年7月7日にニューヨークのマンハッタン南東部で生まれたアメリカ合衆国の映画監督で、「女性映画の巨匠」と呼ばれる。ハンガリー系ユダヤ人の移民の家庭に、二人きょうだいの年下の子として生まれ、ただ一人の息子であった。父ヴィクターは地方検事補、母はヘレン・イローナ・グロスで、名は米西戦争の英雄ジョージ・デューイにちなんで付けられた。家は特に信心深くはなく、少年のころ、意味の分からないままヘブライ語を音で覚えた。そのため信仰には複雑な思いを抱き、成人してからは英国趣味に傾いたという。子供のころから舞台に出て、7歳のときの発表会では、のちに恩人となるデヴィッド・O・セルズニックと同じ舞台に立った。高校では、叔父に連れられて通った劇場に夢中になり、授業を抜けてマチネーを見に行くこともあった。最終学年にはメトロポリタン歌劇場のエキストラとして働いた。
1917年に高校を卒業すると、父と同じ法律の道に進むことを期待され、ニューヨーク市立大学に入学したが、まもなく去った。巡業するミュージカルの舞台助監督と端役の仕事を得て、1920年にはニューヨーク州シラキュースとロチェスターを巡業する劇団の舞台監督となった。1925年には共同で制作会社を設立し、初めて演出の機会を得た。ブロードウェイでの演出デビュー作はハンガリーの劇作家の『アントニア』で、その後ロチェスターに戻って自らの劇団を率い、のちにハリウッドで共演するルイス・カルヘルンやフランク・モーガンらが参加した。ベティ・デイヴィスも1シーズンだけ在籍した。1926年にオーウェン・デイヴィスが脚色した『グレート・ギャツビー』を演出して、ニューヨークの批評家の注目を集めた。
トーキーの時代に入ると、ハリウッドは舞台の人材を求め、1928年12月にパラマウントが契約した。1929年2月にハリウッドへ着き、最初の仕事は、出演者に南部の訛りを指導することであった。10月にはユニバーサルに貸し出され、1930年の『西部戦線異状なし』で台詞の監督を務めた。1932年の『心を汚されし女』で映画監督として本格的にデビューした。RKOに移っていたセルズニックの下で、『栄光のハリウッド』や『若草物語』などを撮り、キャサリン・ヘプバーンをハリウッドに招いて、彼女の初出演作を手がけた。1933年にセルズニックがMGMに移ると同社に移籍し、『晩餐八時』『孤児ダビド物語』『ロミオとジュリエット』『椿姫』などを撮った。
『風と共に去りぬ』ではセルズニックと方針が合わず、ヴィヴィアン・リーらに気を使い過ぎる点にクラーク・ゲーブルが不満を漏らしたことなどもあって、1か月ほどで降板した。監督としてクレジットされたのはヴィクター・フレミングである。それでも、女優の指導は密かに続けたという。その後も『フィラデルフィア物語』『ガス燈』『アダム氏とマダム』『ボーン・イエスタデイ』『スタア誕生』などを発表した。1964年の『マイ・フェア・レディ』が大ヒットし、唯一のアカデミー監督賞を受賞した。1975年にはテレビ映画『恋の旅路』でエミー賞の監督賞を受けた。82歳の1981年にも『ベストフレンズ』を撮り、1983年1月24日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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