伝記
フランシスコ・ピサロは、カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョで生まれたスペインの軍人、探検家で、インカ帝国を征服したことで知られる。生年ははっきりせず、1478年ともいわれ、1470年代のおそらく1475年ごろともされる。父は軍人で小貴族のゴンサロ・ピサロ、母は貧しい召使だったといわれ、庶子として生まれた。教育はほとんど受けず、生涯文字を知らなかった。ゴンサロ・ピサロは異母弟にあたる。コルテスとは、父方の遠縁にあたるとされる。母が後に産んだ異父弟フランシスコ・マルティン・デ・アルカンタラも、ペルーの征服に加わった。
1498年から1502年にかけてイタリア戦争に参加し、1502年にニコラス・デ・オバンド総督の着任航海でエスパニョーラ島へ渡った。1509年にはオヘーダとともにウラバ遠征に渡った。1513年にはバルボアのパナマ地峡横断に同行し、太平洋に到達した。総督ペドロ・アリアス・ダビラの側近となり、新しく建設されたパナマ市で1519年から1523年まで市長と治安判事を務めた。ペルラス諸島に滞在中、黄金郷ペルーの情報を得て、探検家ディエゴ・デ・アルマグロ、司祭エルナンド・デ・ルケと組み、征服した帝国を三人で等分するという約束を交わした。ピサロが遠征を指揮し、アルマグロが兵と食糧、ルケが資金を受け持つ取り決めだった。この取り決めのもと、1524年と1526年の二度にわたって南米を探検し、苦労の末、都市トゥンベスまで進み、それが広大な領土を持つ国の一部であることを知った。
1528年にスペインへ戻り、国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からペルー支配の許可を取った。征服の権利や貴族の位を得て総督に任命され、4人の兄弟らと募った兵とともに、1530年にパナマへ戻った。1531年、約180人の手勢と37頭の馬を率いてパナマを出港し、ペルーへ侵入した。トゥンベスまで南下してサン・ミゲル・デ・ピウラを建設し、インカ皇帝アタワルパを追って南進した。1532年11月、カハマルカでアタワルパに会見し、その場で生け捕りにした。アタワルパの身代金として莫大な貴金属を受け取ったが、生かしておけば先住民が彼を担いで反乱を起こすと判断し、約束を破って1533年7月26日に処刑した。同じ年に首都クスコに無血入城した。1535年にはシウダー・デ・ロス・レイェス、現在のリマを建設した。
しかし支配地の分配、特にクスコの領有をめぐってアルマグロと対立し、1537年から内戦になった。1537年には国王から征服侯爵の称号を与えられ、1538年4月にアルマグロを破って処刑した。だがスペイン本国の支持を失い、1541年6月26日、アルマグロの遺児の一派にリマで暗殺された。遺体はミイラとして今も遺されている。
母国スペインでは英雄とされ、1992年からユーロ導入まで発行された最後の1000ペセタ紙幣の裏面に肖像が使われた。一方ペルーでは、リマ建都400周年を記念して1935年に贈られた騎馬像が、市民の反発で1952年に大統領府前の広場の片隅に移され、2004年には市長の命令で「国民感情にそぐわない」として撤去された。
同じ年に亡くなった人物
- ガジ・フスレヴ=ベグ (1541年没)
- アンドレアス・フォン・カールシュタット (1541年)
- マーガレット・テューダー (1541年没)
- ベルナールト・ファン・オルレイ (1541年没)
- Gul Baba (1541年)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド・ベラウンデ・テリー (2002年没)
- フアン・ベラスコ・アルバラード (1977年没)
- ガスパール・デ・スニガ・イ・アセベード (1606年没)
- スサーナ・ヒグチ (2021年没)
- Miguel de San Roman (1863年没)