伝記
エルジェは、本名をジョルジュ・プロスペル・レミといい、1907年5月22日にブリュッセル近郊のエテルベークで生まれ、1983年3月3日に没したベルギーの漫画家である。代表作『タンタンの冒険』の作者として知られ、ほかに『クックとプッケ』などのシリーズも描いた。ペンネームのエルジェは、本名のイニシャルGとRを逆さにしてRGとし、これをフランス語で読んだ音に当てたものである。
中流家庭に生まれ、父アレクシ・レミは子ども服の店の従業員、母エリザベト・デュフールは主婦だった。父はワロン人、母はフラマン人である。弟にポールがいた。1914年から1918年までイクセルの市立小学校で学び、第一次世界大戦のさなかで、ノートの余白に描いた最初の絵は戦争に着想を得ていた。父の雇い主の圧力により、世俗の公立学校から宗教系の中学校に移ったことが、のちの思想的な立場に決定的な影響を与えたとされる。成績は優秀で、たいてい首席だったが、絵の授業は受けなかった。中学生の頃、学校のボーイスカウト雑誌でイラストを描き始め、1923年から『ベルギーのボーイスカウト』誌に描くようになった。ペンネームを使い始めたのは翌1924年からである。冒険の物語は、スカウト運動の倫理や、少年期の旅行の影響を強く受けていた。
1925年に保守的な『20世紀新聞』の定期購読部に就職した。責任者のワレ神父の影響を受け、のちに神父の秘書だった女性と結婚した。1926年には兵役にも就いた。翌年10月に新聞へ戻り、1928年11月に神父が創刊した子ども向けの付録誌の編集を任された。1926年7月から『ベルギーのボーイスカウト』誌に『コガネムシ隊長トトールの奇妙な冒険』を連載し、このトトールがタンタンの前身となった。1929年1月10日、付録誌の『20世紀子ども新聞』にタンタンと犬のスノーウィの物語が初めて登場した。最初の冒険はソ連が舞台で、連載が終わった1930年5月には、ブリュッセルの駅にタンタンの到着を演出し、群衆が詰めかけたという。この予想外の成功に励まされて、冒険は続けられた。1930年にはクックとプッケも生まれ、1930年代の終わりまで付録誌に載った。
第二次世界大戦中はベルギーに留まり、『20世紀子ども新聞』から日刊紙『ル・ソワール』に掲載紙を替えてタンタンの連載を続けた。このことが原因で、終戦後は一時職を失い、一部から批判を受けるなど、風当たりが強い時期を過ごした。元レジスタンスのレイモン・ルブランの協力で、1946年に週刊誌『タンタン』が創刊され、2年ぶりに連載を再開したが、執筆の際の過労による神経衰弱から、たびたび連載が中断した。そこで1950年にスタジオ・エルジェが設立され、ボブ・ドゥムーアやロジェ・ルルーらの協力を得て、連載が続けられた。
晩年はモダンアートに情熱を傾けた。遺作となった『タンタンとアルファ・アート』は、モダンアートを題材にしている。1983年3月3日に白血病で死去した。没後24年の2007年5月22日、伝記を準備していたフィリップ・ゴダンの調査による説が新聞に公表され、晩年に輸血でHIVに感染し、肺炎で死亡した可能性があるとされた。弟のポールは職業軍人で、戦後ベルギー占領軍の司令官を務めた。タンタンとスポンツ大佐の風貌は、このポールがモデルだとされる。エルジェにちなんだ小惑星があり、2009年にはミュゼ・エルジェが開館し、2012年には生涯を描くドキュメンタリー映画『タンタンと私』が公開された。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・ヘックマン (1983年没)
- ヘネス・バイスバイラー (1983年没)
- ジョーン・ロビンソン (1983年没)
- ビリー・フューリー (1983年没)
- ゲルハルト・バルクホルン (1983年没)
同じ地域に関係する人物
- カトリーヌ・ド・フランス (1428-1446) (1446年没)
- テオフィル・ド・ドンデ (1957年没)
- カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン (2007年没)
- ジャン=バティスト・バガザ (2016年没)
- ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公) (1699年没)