伝記
ウンベルト2世は、1904年9月15日に生まれ、1983年3月18日に没したイタリア王国の第4代にして最後の国王である。在位は1946年5月9日から6月12日までで、短い在位から「五月王」と呼ばれた。日本語の文献には、英語名由来のハンバート2世や、フランス語名由来のアンベール2世の呼称も見られる。第二次世界大戦後に国民投票で王政が廃止され、国外追放となり、ウンベルト・ビアンカマーノから続いてきた王侯貴族としてのサヴォイア家は終焉を迎えた。
サヴォイア家の離宮ラッコニージ城で、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と、モンテネグロ王女の妃エレナの長男として生まれた。4人の姉妹がおり、サヴォイア家としては数少ないスラブ人の血を引く。大規模なゼネラル・ストライキの最中に生まれたため、立太子の承認は慌ただしく行われた。父は息子にローマ王の称号を与えたがったが、教会の反発を恐れる周囲の説得で、ピエモンテ公に叙任した。
父の強い期待で幼い頃から厳しく育てられ、軍人の道に進む教育を受けた。趣味でスポーツを得意とし、又従兄のアメデーオと並んで国民に人気のある王族に成長した。18歳のときに、父の後ろ盾を得たムッソリーニが独裁政権を樹立すると、ファシストは王家との親睦を強調するため、ウンベルトとの結びつきを深めた。1924年9月には、父の代理として南米のブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリを歴訪し、イタリア系移民の会合に出席した。帰国後は、陸軍中将として南部方面軍総司令官に就いたが、これはサヴォイア家の慣例に基づく形式的なもので、実際の指揮権は将軍たちやファシスト政権に委ねられていた。
父と同じく、ファシスト政権とムッソリーニを忠臣として信頼したため、反ファシズム勢力からは強く敵視された。1929年10月24日には、ブリュッセル訪問中に暗殺未遂に遭っている。ベルギー王女マリーア・ジョゼとの婚約が取り決められた日、戦死したベルギー兵の記念碑に献花していたところを見物客の一人に銃撃されたが、弾は外れた。1930年1月30日にマリーア・ジョゼと結婚し、一男三女をもうけたが、夫妻の仲は良好ではなかった。新婚旅行でドイツを訪れたとき、ヒトラーと会談したことは、のちにイタリア国内で問題視された。
ファシスト政権が第二次世界大戦への参加を決めると、軍高官として勤務した。一方、マリーア・ジョゼは祖国を踏みにじったナチス・ドイツを許せず、連合国との交渉を密かに続けた。ムッソリーニがイタリア社会共和国を樹立し、イタリア王国が南部に追いやられて内戦状態になると、父は責任を取ってエジプトに隠遁した。ウンベルトは摂政として連合国との交渉と自由イタリア軍の組織化を行い、戦争の早期終結に努めた。この努力は戦後、サヴォイア王家への信頼を取り戻す功績となった。
戦後、王家のファシストへの協力が批判され、王政を廃止すべきだという声が左派勢力から上がった。国民投票が決まると、父はようやく退位を受け入れ、1946年5月9日にウンベルトは国王として戴冠した。しかし遅きに失し、6月2日の国民投票では、廃止54パーセント、存続46パーセントの僅差で、王政廃止と共和制への移行が決まった。臨時政府はウンベルト2世らサヴォイア家を国外追放にした。6月13日にイタリアを去り、ポルトガルに亡命して37年間をそこで暮らした。1983年3月18日、スイスのジュネーヴ滞在中に没した。遺言に従い、サヴォイア家発祥の地サヴォワのオートコンブ修道院に埋葬され、1万人のイタリア人が葬儀に参列した。
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