HISTORICAL PERSON · 1982年没

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

ドイツの映画監督・脚本家。ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人で、16年間に44本の映画を発表し、ダグラス・サークのメロドラマに強く影響された。

生涯
1982年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
ドイツ連邦共和国(バート・ヴェーリスホーフェン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、1945年5月31日に生まれ、1982年6月10日に37歳で没したドイツの映画監督、脚本家、舞台演出家、俳優である。ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人として知られ、16年間で44本の映画、14本の戯曲、6本の脚色戯曲、4本のラジオドラマを発表した。

バイエルン自由州のバート・ヴェリスホーフェンで、医者の父ヘルムートと翻訳家の母リーゼロッテの子として生まれた。1951年に両親が離婚すると、母の手で一人息子として育てられた。シュタイナー学校を卒業し、16歳で高校を中退すると、ケルンの父のもとに身を寄せた。早くから映画に関心を持っていたが、映画学校で学ぶ志望は叶わなかった。新聞社の資料室の事務助手や歌劇場のエキストラなどのアルバイトをしながら、1964年から2年間、ミュンヘンの私立の俳優養成学校に通った。1966年に新設された映画大学に願書を出したが不合格となり、同年に初めて短編映画を2本つくり、翌年には初の35ミリ短編映画『小カオス』を製作した。1967年からは俳優として、他の監督の作品にも出演している。

1967年にミュンヘンの小劇団に参加し、演出家兼俳優として活動を始め、1968年5月に仲間たちと劇団「アンチテアター」を結成した。このグループには、のちのファスビンダー映画の常連となる顔ぶれがそろっていた。1968年から1971年までのあいだ、これらの劇団のほぼすべての戯曲を執筆し、演出して上演した。1969年にはアンチテアターのメンバーとともに長編映画の製作を始め、初の長編となるギャング映画『愛は死より冷酷』を撮った。続けて外国人労働者を描いた『出稼ぎ野郎』を発表し、1970年のドイツ映画賞を受賞して話題となった。1970年から1971年の2年間には、テレビ映画なども含めて10本の映像作品を矢継ぎ早に発表した。グループのメンバーは一種の疑似家族となり、公私にわたるパートナーたちも加わっていた。1970年から1972年までは、女優のイングリット・カーフェンと結婚していた。

1972年以降は、自身の映画言語を発展させ、『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972年)、『不安は魂を食いつくす』(1974年)、『自由の代償』(1975年)などを立て続けに発表した。『不安は魂を食いつくす』は、1974年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞などを受賞している。これらによって、ヴィム・ヴェンダースやヴェルナー・ヘルツォークとともに、国内外で名が知られるようになった。1974年にはフランクフルトの劇場の監督の一人に就いたが、自作の戯曲の登場人物をめぐり、反ユダヤ的との非難を受けた。1978年には、恋人のアルミン・マイアーが睡眠薬の大量摂取で自殺し、その衝撃のなか、25日間の撮影で『13回の新月のある年に』を撮り上げた。1979年の『マリア・ブラウンの結婚』はベルリン国際映画祭で絶賛され、主演のハンナ・シグラが銀熊賞を受け、今日では代表作とされる。1980年には全14話、約15時間の連続テレビ映画『ベルリン・アレクサンダー広場』を製作し、西ドイツ国内では非難を浴びたが、日本では2000年に劇場公開された。1982年の『ベロニカ・フォスのあこがれ』は、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。

1982年6月10日、ジャン・ジュネの小説を映画化した『ケレル』の編集作業中、コカインの過剰摂取で死去した。遺作の『ケレル』はヴェネツィア国際映画祭に出品され、マルセル・カルネに激賞された。

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