HISTORICAL PERSON · 1534年没

コレッジョ

盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家で、主に宗教画を描き、晩年の神話画で特に有名。ダ・ヴィンチ由来のスフマートに熟達し、パルマ大聖堂天井画の空間表現はバロックの先駆と見なされる。

生涯
1534年没
死亡地
イタリア共和国(レッジョ・エミリア県 / コッレッジョ)
出生地
イタリア共和国(コッレッジョ)
出典
世界地図
イタリア共和国(レッジョ・エミリア県)

伝記

コレッジョは、盛期ルネサンスを代表する北イタリアの画家である。本名はアントニオ・アッレグリといい、モデナに近いコレッジョで、布地職人の父ペレグリーノと母ベルナルディーナの間に生まれ、同地で没した。生年ははっきりしない。40歳頃に死去したというヴァザーリの記述から1494年頃とされてきたが、1514年8月30日付の『聖フランチェスコの祭壇画』の委託書に、若者の仕事に必要な父の承諾や判事の認可の記載がないため、当時25歳を超えていたと推測され、現在は1489年頃とするのが通説である。生涯の史料は少なく、修業時代から初期の経歴には不明な点が多い。伯父ロレンツォ・アッレグリらのもとで学んだのち、1503年頃にモデナの画家フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリに師事したとされる。

1506年頃にマントヴァへ移り、マンテーニャの厳格な画風の影響を受けた。最初期の重要な作品はその数年後で、『キリストの降誕に立ち会う聖エリサベトと聖ヨハネ』や『聖フランチェスコの聖母』にはマンテーニャの影響が見て取れる。しかし、それ以上にレオナルド・ダ・ヴィンチへの関心が深く、線で形態を捉える厳格な芸術から急速に離れて、スフマートで輪郭をぼかす柔らかな表現と甘美な色彩を身につけた。1516年以降は、うつむいて微笑む聖母子像を小品で多く描き、1517年から1520年頃にはレオナルドの様式を洗練させ、色彩の甘美さも増していった。ヴァザーリはローマを訪れていればもっと偉大になったと考えたが、実際にローマを訪れたかどうかは、史料を欠くため今も論争が続いている。

1519年頃にはパルマに移り、ベネディクト会のサン・パオロ女子修道院で、修道院長の依頼により私的な居間の装飾を手がけた。天井を大きなドーム状の蔓棚に見立て、16の区画に分け、リボンや房飾り、二人組のプットー、古代彫刻に見立てたグリザイユのメダイヨンを描いた。同じ年、当時16歳のジローラマ・メルリーニと結婚し、息子と3人の娘が生まれた。1520年から1524年にかけては、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画に、天を見上げる十二使徒や四教父、天から現れるキリストを描いた。短縮法を効かせ、天井の穴から本物の空を見上げるような錯視を狙ったもので、描かれた使徒たちの姿にはミケランジェロやラファエロに通じる力強さがあり、ローマ旅行の証拠としてメングス以来論じられている。この事業では、パルマ派の双璧をなす画家パルミジャニーノもデビューした。1524年から1525年には、同聖堂のデル・ボーノ家礼拝堂の祭壇画『キリストの哀悼』と『四聖人の殉教』を制作した。1520年代前半の作品では、宗教的主題の登場人物が味わう個人的な内的法悦を、鑑賞者の宗教的感情と結びつけて描くことに意を注いだ。『キリストの哀悼』では、息絶えたキリストに駆け寄る家族の悲しみを描き、十字架は根元しか描かなかった。モデナでは聖セバスティアヌス同信会の注文で、『聖セバスティアヌスの聖母』などを制作している。

1522年に注文を受け、1526年以降に制作して1530年頃に完成したパルマ大聖堂の天井画『聖母被昇天』は、大きなクーポラに天井画を描いた最初の例となり、短縮法による天井画の表現を極限まで進めた。その流動的でイリュージョニスティックな空間表現から、約100年後のバロックの先駆者と見なされる。コレッジョは1534年に没し、17世紀以降評価が高まって、18世紀にはメングスがラファエロに次ぐ位置に置いた。

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