伝記
クレメンス7世は、1478年5月26日にフィレンツェで生まれ、1534年9月25日に没したローマ教皇である。在位は1523年から没年までで、メディチ家の出身、本名はジュリオ・デ・メディチという。父は、パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノ・デ・メディチで、その死のちょうど1か月後に、庶子として生まれた。母はフィオレッタ・ゴリーニとされるが、正確な身元は分かっていないともいう。2代前の教皇レオ10世の従弟にあたる。
生後7年ほどは名付け親の建築家アントニオ・ダ・サンガッロ(父)のもとで過ごし、その後は、ロレンツォ・イル・マニフィコに、自分の息子たちであるジョヴァンニ(のちのレオ10世)、ピエロ、ジュリアーノとともに育てられた。ポリツィアーノら人文主義者に学び、同じ環境にミケランジェロもいた。音楽の才があり、内気で容姿は美しいと見られた。生来は聖職を志したが、庶子であることが高位の聖職に就く妨げとなったため、ロレンツォの援助で騎士としての道を進んだ。1492年にロレンツォが没し、ジョヴァンニが枢機卿の務めを引き継ぐと、教会の事柄に関わるようになった。1494年にメディチ家がフィレンツェから追放されると、枢機卿ジョヴァンニとともに約6年間ヨーロッパを流浪し、二度捕らわれた。1512年、教皇ユリウス2世とスペイン軍の助けで、メディチ家はフィレンツェの支配を取り戻した。
レオ10世のもとでは枢機卿として有能な手腕を発揮し、ラファエロを引き立て、1520年には政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼した。1523年に教皇に選ばれたときは、政治家として高い評判を得ていた。ところが在位中は、フランスとハプスブルク家が争うイタリア戦争、ルターによる宗教改革、オスマン帝国の圧力など、不安定な情勢に翻弄された。1527年、フランス王フランソワ1世と同盟した教皇への報復として、神聖ローマ皇帝カール5世の軍が教皇領のローマに侵攻し、教皇はサンタンジェロ城に逃れたが、市内では殺戮、破壊、略奪、暴行が繰り広げられた。ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。教皇の優柔不断な面もあったが、この時代は教会史でも過酷な時期であり、個人の資質のみを責めるのは酷だといわれる。のちにカール5世と和解し、皇帝の戴冠をボローニャで行った。
一族の権益の擁護にも努めた。庶子アレッサンドロは、教皇の後見のもとでフィレンツェを統治し、1527年に一時追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰し、1532年にフィレンツェ公に叙された。1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子アンリの結婚式に出席した。同年、コペルニクスの地動説を自ら承認したともされ、コペルニクスの研究を支援したという。晩年にはミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画を依頼したが、実際に「最後の審判」が描かれたのは死後の1536年から1541年である。教会の面では、ユダヤ人を異端審問から守る命令を出し、カプチン・フランシスコ修道会を認可した。ヘンリー8世と、その離婚問題を承認したトマス・クランマーを破門するなど、イングランド王との対立が深まる中、1534年9月25日に亡くなった。死因は猛毒のタマゴテングタケの中毒と伝わり、時代の荒波にもまれた「悲劇の教皇」と評される。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・ピガフェッタ (1534年没)
- Willem van Enckevoirt (1534年)
- ヤン・マティアス (1534年没)
- フィリップ・ヴィリエ・ド・リラダン (1534年没)
- Muhammad Khwandamir (1534年没)
同じ地域に関係する人物
- ペリーノ・デル・ヴァーガ (1546年没)
- ソテル (ローマ教皇) (174年没)
- ペドロ・アルペ (1991年没)
- ミェチスワフ・ハルカ ・レドコフスキ (1902年没)
- Guido Bentivoglio (1644年没)