HISTORICAL PERSON · 1981年没

ジョー・ルイス

アメリカの元プロボクサーで、世界ヘビー級王者。全階級を通じて最多の世界王座25回連続防衛の記録を持つ。ニックネームは「褐色の爆撃機」。

生涯
1981年没
死亡地
アメリカ合衆国(ネバダ州 / ラスベガス)
出生地
アメリカ合衆国(ラファイエット)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ネバダ州)

伝記

ジョー・ルイスは、1914年5月13日にアメリカ合衆国のアラバマ州ラファイエットで生まれ、1981年4月12日に没した元プロボクサーである。ジャック・ジョンソンに続く史上2人目の黒人の世界ヘビー級王者で、世界王座の連続防衛25回は、全階級を通じて最多の記録として知られる。

父マンロー・バローは、ルイスが生まれて間もない1916年に精神病院に収容されたため、本人は父の記憶がほとんどなかった。言語障害にも苦しみ、6歳近くまでほとんど話せなかった。1926年に、大移動の流れでミシガン州デトロイトへ引っ越した際には、白人至上主義団体の者から脅しを受けた。1932年初頭に17歳でアマチュアデビューしたが、ほとんど読み書きができず、記入欄に名前を大きく書きすぎて「ジョセフ」を書く余白がなくなり、「ジョー」とだけ記入したことから、ジョー・ルイスの名で活動するようになったとされる。

デトロイトの黒人のノミ屋ジョン・ロックスボローから、白人のマネージャーをつけても搾取されるだけだと口説かれ、彼をマネージャーにして、1934年7月4日にプロデビューした。黒人差別が当たり前の時代であり、ジョンソンの遺産を払拭するため、ルイスの陣営は、謙虚さとスポーツマンシップを前面に出して売り出す戦略をとった。「白人の女性と一緒に写真を撮らない」「倒れた相手をあざ笑わない」「八百長に関与しない」「きれいに生きて、きれいに戦う」といった「7つの戒め」を作り、ルイスの印象を慎重に形作った。1935年6月25日には、元世界王者の巨人プリモ・カルネラにKO勝ちして注目を集めた。

1936年6月19日、ヤンキー・スタジアムで元世界王者シュメリングと対戦した。ドイツではヒトラー率いるナチス党が政権を取っており、民主主義のアメリカとファシズムのドイツの対立を象徴する一戦とも見られた。ルイスは調整試合にすぎないと考え、あまりトレーニングをしていなかったと言われる。シュメリングは映像を研究し、ジャブを打つ際にガードが下がる癖を見抜いていた。ルイスは4回に右クロスのカウンターでキャリア初のダウンを奪われ、12回KO負けを喫した。

シュメリングが世界王者ジェームス・J・ブラドックとの交渉に失敗すると、代わりにルイスがブラドックに挑戦することになった。1937年6月22日、8回KO勝ちで王座を獲得した。1938年6月22日、第二次世界大戦を目前にして、ヤンキー・スタジアムでシュメリングとの再戦が行われた。70,043人の観衆が集まり、アメリカで7000万人、世界で1億人以上がラジオ中継を聴いたとされる。ルイスは今度はキャンプ中にゴルフと女性を断って真剣に練習し、試合は124秒の間に3度のダウンを奪ったルイスの圧勝に終わった。この勝利で黒人として最初の国民的英雄と考えられるようになった。

第二次世界大戦中は、1942年1月にチャリティー興行でバディ・ベアと対戦して寄付金を集め、翌日に陸軍への入隊を志願した。陸軍は戦場に送らず、兵士の士気を高めるため各地を回り、96試合のエキシビションを行わせた。1945年に二等軍曹へ昇進し、一般的な士気への貢献でレジオン・オブ・メリットを授与された。除隊後は税金の滞納などの借金問題が浮上してボクシングを再開した。1946年6月、ビリー・コンに8回KO勝ちしたが、全盛期を過ぎて衰えていることは明らかだった。1947年12月5日の、ジャーシー・ジョー・ウォルコット戦では、2度ダウンを奪われながら、疑惑の判定で勝利した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物