伝記
ハロルド・クレイトン・ユーリーは、1893年4月29日にアメリカ合衆国インディアナ州ウォルカートンで生まれ、1981年1月5日にカリフォルニア州ラホーヤで没した化学者である。同位体の先駆的な研究を行い、1934年に重水素の発見でノーベル化学賞を受賞した。原子爆弾の開発でも重要な役割を果たし、非生命から有機的な生命が生まれる過程の理論にも貢献した。
ドイツ系の家柄で、父サミュエル・クレイトンは教師であり、教会の牧師でもあった。母はコーラ・レベッカである。弟と妹がいた。父が結核にかかったため、気候が体調を改善させることを期待して、一家はカリフォルニア州に移ったが、助かる見込みがないと分かるとインディアナ州に戻り、母方の祖母と同居した。父はハロルドが6歳のときに亡くなった。アーミッシュの学校で学んで14歳で卒業し、ケンダルヴィルの高校に進んで1911年に卒業した。ついで教員免許を取り、インディアナ州の小さな学校で教えた。その後、母が住んでいたモンタナ州に移り、教え続けて、1914年秋にモンタナ大学に入り、1917年に動物学の学士号を得た。
同年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、戦争への協力を求める圧力が強まった。ユーリーは戦争に反対する宗派のなかで育っており、教授の一人は、化学者として戦時に貢献することを勧めた。兵士として軍に入る代わりに、フィラデルフィアの化学会社でTNTを製造する仕事に就いた。戦後はモンタナ大学に戻って化学の講師となった。学者の道には博士号が必要だったため、1921年にカリフォルニア大学バークレー校の大学院に入り、ギルバート・ルイスのもとで熱力学を学んだ。1923年に博士号を取得すると、奨学金を得てコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で原子の構造を研究し、ハイゼンベルクやパウリらと出会った。1924年に米国へ戻り、ジョンズ・ホプキンス大学の研究員を経て、1929年にコロンビア大学の準教授となり、1934年に教授となった。
液体水素を繰り返し蒸留する研究から、重水素の単離に成功し、その成果を発表して、ノーベル賞を受けた。第二次世界大戦ではマンハッタン計画に参加し、コロンビア大学のグループを率いて、ウランからウラン235のみを得るためのガス拡散法を開発した。この方法は戦後の初期に、唯一の方法として使われた。戦後は核科学研究所の教授となり、のちにシカゴ大学の化学のライアーソン教授となった。原始の地球の大気がアンモニア、メタン、水素からなると推測し、教え子のスタンリー・ミラーが1953年にこの混合物に放電を行って、アミノ酸ができることを示した。これが有名なユーリー・ミラーの実験で、生命の起源の解明の端緒として知られる。酸素の同位体の研究は、古気候学という新分野を切り開いた。1958年に新設のカリフォルニア大学サンディエゴ校の教授に就き、宇宙科学への関心を強めて、アポロ計画で持ち帰られた月の石も調べた。宇宙飛行士のハリソン・シュミットによれば、ユーリーは月への片道飛行の志願者として「行く。戻れなくても構わない」と申し出たという。受けた賞には、1934年のウィラード・ギブズ賞、1940年のデービーメダル、1964年のアメリカ国家科学賞、1973年のプリーストリー賞などがある。
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