伝記
ウィリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー、通称ビル・ヘイリーは、1925年7月6日に(1927年3月とも言われる)、アメリカのミシガン州ハイランドパークで生まれたミュージシャンで、1950年代中期のロックンロール・ブームの先駆者の一人である。4歳のとき中耳炎を患い、治療中に医師が誤って視神経を切ってしまい、左目を失明したという。そのため前髪を額に垂らす独特の髪型にしたと伝えられる。その後、両親とともにフィラデルフィアに隣接するペンシルヴァニア州チェスターに移った。当時の地元ではカントリー・ミュージックがスウィングとともに非常に人気があり、彼の音楽の基盤になった。10代のとき、近郊の競売市場での路上演奏で初めての収入を得た。ギタリストとして地元のいくつかのバンドに在籍し、北西部を巡業し、1946年に最初の録音を経験した。
1948年に地元に戻り、自分のバンド「フォーエイセス」を結成して、ラジオ局に出演し始めた。カウボーイという小さなレーベルから、1949年に「キャンディ・キス」を含む2枚のシングルを出したが、ヒットしなかった。そのほかのレーベルを転々としたが、やはりヒットに恵まれず、ラジオ出演でどうにか暮らしを立てていた。1950年にはバンド名を「ザ・サドルメン」に改めている。1951年にフィラデルフィアのレーベル経営者デイブ・ミラーと契約し、黒人音楽のカヴァー曲「ロケット88」を録音した。白人が黒人音楽を取り上げることは一般にタブーとされていたため、ミラーは白人と黒人の双方の購買層を狙い、ヘイリーが白人であることを伏せ、写真も使わなかった。1万枚を売ったという。
1952年には、ラジオ局の番組のテーマ曲に使われていた「ロック・ザ・ジョイント」をヒルビリー音楽にない高揚感が気に入って、歌詞を変えて録音した。これはカントリー・バラード「アイシー・ハート」とのカップリングで発売され、宣伝のツアーでは、ポップ系のDJの話題は裏面の「ロック・ザ・ジョイント」に集まった。15万枚を売った。マネージャーのジャック・ハワードによると、ある店で演奏すると観客がざわめいて揺れだし、それがロックンロール創造の瞬間だったという。2週間の契約は18か月に延びた。この年の9月にバンド名を「コメッツ」と改めた。1953年4月に発売した「クレイジー・マン・クレイジー」は全米で最高12位を記録し、最終的に100万枚を売り上げた。この時期からバンドにドラムとサックスが加わり、ロックンロールの音に向かっていく。
1954年4月1日にデッカ・レコードと契約した。その内容は、年に4枚のシングルの発売や、2,000のラジオ局のDJへの見本盤の配布、5パーセントの印税などで、優れたものだった。5月に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、7月に「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を発売し、後者はポップチャートで最高7位の大ヒットとなった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、翌1955年に映画『暴力教室』の冒頭に使われると、1955年7月9日から8月27日まで8週連続でビルボードの1位を記録した。これをきっかけにアメリカをはじめ世界的なロックンロール・ブームが起こった。ヘイリーは1981年2月9日に亡くなった。
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