伝記
メルヴィン・ダグラスは、1901年4月5日、アメリカ合衆国ジョージア州メイコンで生まれた俳優である。生まれたときの名はメルヴィン・エドゥアール・ヘッセルバーグといい、父エドゥアールはコンサート・ピアニストで作曲家、母はテネシー州出身のプロテスタントで、メイフラワー号の乗客の子孫だった。父は当時ロシア帝国領だったラトビアのリガから来たユダヤ系の移民で、アメリカやカナダの大学で次々に音楽を教えた。ダグラスは自伝で、十代の初めまで自分がユダヤ系であることを知らなかったと書いている。両親がその出自を隠したがったためで、14歳のときに父方の叔母たちから本当のことを聞かされたという。彼女らを無条件に敬愛し、叔母たちも彼を息子のように扱った。高校は卒業しなかった。母方の祖母の姓を名乗り、メルヴィン・ダグラスとして知られるようになった。
十代のうちにシェイクスピアの劇団で演技を磨き、アイオワ州やインディアナ州などの劇団でも経験を積んだ。第一次世界大戦ではアメリカ陸軍に服務し、シカゴには野外劇場を設けた。1928年にブロードウェイにデビューし、1930年の『今夜か、さもなくば』では、のちに妻となるヘレン・ゲイハガンと共演した。1932年にはジェームズ・ホエール監督のホラー映画で、ボリス・カーロフやチャールズ・ロートンと並んで主演の扱いを受けた。洗練された二枚目として頭角を現し、1939年のグレタ・ガルボとの喜劇『ニノチカ』は代表作とされる。ガルボとは3本の映画で共演し、ジョーン・クロフォードとも何本か共演した。『勇者の船出』では、遅ればせながら子供に目を向けるようになる父親を演じ、もっとも同情を誘う役の一つとなった。
第二次世界大戦中は、まず民間防衛局で芸術評議会の理事を務め、その後は再び陸軍に入って少佐にまで昇進した。孫娘によれば、ビルマで英国空軍にいたピーター・セラーズと知り合ったのが、後の共演の縁になったという。戦後は映画に戻り、より円熟した役を演じた。1952年から1961年までは映画に出ず、舞台とテレビに専念した。1960年にはゴア・ヴィダルの劇『ザ・ベスト・マン』の主役でトニー賞を受けた。1960年代に映画へ戻ると、年配の男性や父親の役を担うようになった。1963年の『ハッド』で初のアカデミー助演男優賞を受け、1970年の出演作では主演男優賞の候補となった。1979年の『チャンス』で2度目の助演男優賞を受賞したが、晩年のインタビューで、子役のジャスティン・ヘンリーと競うのに耐えられず、授賞式への出席を拒んだと語っている。1967年にはエミー賞も獲得し、アカデミー賞2回、エミー賞、トニー賞を制した24人の一人となった。1981年8月4日に死去した。
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