伝記
ウィリアム・サローヤンは、1908年8月31日にカリフォルニア州のフレズノで生まれたアメリカの小説家、劇作家である。サロイアンやサロイヤンとも表記される。トルコ東部から1905年にアメリカへ移住したアルメニア人の末子として生まれた。一歳半のときに父を喪い、4人の兄姉とともにオークランドの孤児院に入り、5年後、女工をしていた母に引き取られた。学業の半ばの12歳のときから、電報配達や新聞売りなどをして稼いだ。のちに作家を志し、1930年ごろから雑誌や新聞に書き始めた。
1934年、26歳のときに雑誌「ストーリー」に載せた『空中ブランコに乗った若者』によって知られるようになった。以降、アメリカの庶民の哀歓を、平易な文体で明るく、ほろ苦く綴り続けた。映画の台本も書いた。最初の著作は1933年の『七万人のアッシリア人』で、同じ民族の人々を描いた『アッシリア人たち』を1950年にも出している。1938年、30歳のときに戯曲『わが心高原に』が、翌1939年には『君が人生の時』が、ブロードウェイで当たった。1940年には後者に演劇部門のピューリッツァー賞が与えられたが、辞退した。同じ1940年に出版した『我が名はアラム』は各国語に翻訳され、日本でも、真珠湾攻撃の直前の1941年11月に、清水俊二の訳書が六興出版から刊行された。1941年の『おーい助けてくれ』、1942年の『夕空晴れて』など、戯曲も続けて発表した。1943年には、シナリオを小説にした『人間喜劇』を2月に出版し、翌月に映画が公開されて、1944年にはこれによりアカデミー原案賞を受けた。
私生活では、1943年に、まだ19歳だった女優のキャロルと結婚して2児を得た。のちに『ティファニーで朝食を』のモデルとしても知られるようになった女性である。しかし、サローヤンの性格と生活態度が原因で、1949年に離婚し、1951年に復縁して、翌1952年に再び離婚した。このころの彼はまさに作家の絶頂期にあったが、キャロルによれば、無類のギャンブル好きで、暴力も激しかった。子供たちは、母親が父親に投げられ首を絞められるところを見ていた。離婚後、子らはキャロルと暮らし、サローヤンはカリフォルニアの家やパリのアパートで独り暮らしをした。夏休みの子らをヨーロッパに連れて行くこともあったが、しだいに疎遠になった。庶民の哀歓を明るく綴り続けた作家は、必ずしも温かい夫、優しい父親ではなかった。息子のアラムは作家に、娘のリュシーは女優に成長した。アラムの著作には、『和解 父サロイヤンとのたたかい』と題された邦訳がある。キャロルは1959年にウォルター・マッソーと再婚した。
1951年には長編小説『ロック・ワグラム』、1953年には『どこかで笑ってる』を、1958年には戯曲『洞窟の住人』を発表している。自伝や回想録にも、1952年の『ビヴァリー・ヒルズの自転車乗り』、1963年の『死ぬのではなく』、1978年の『思いがけない出会い』などがある。サローヤンは1981年、前立腺癌のために、生まれ故郷のフレズノで没し、遺骨はカリフォルニアとアルメニアとに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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