伝記
マックス・エーワ、本名マッヒーリス・エーヴェは、1901年5月20日、アムステルダム近郊のワーテルフラーフスメールに生まれたオランダの数学者であり、チェスの第5代世界チャンピオンである。日本語では、マクヒリス・エーワ、エーウェ、エイヴェなど、表記が揺れている。4歳のときに母からチェスを教わり、10歳のときにはクリスマスの日の大会で、1局も負けずに優勝した。1918年からアムステルダムで数学を学んだが、チェスにもっと時間を割くため、一時、学業を中断した。1919年ごろにはオランダ屈指の強豪となり、1921年、20歳で国内選手権を制した。同じ年、ウィーンの国際大会で2位に入っている。
数学の学位は、優秀な成績で取得した。教員となってロッテルダムの学校で2年間、次いでアムステルダムの女学校で数学を教えながら、直観主義論理の創始者ブラウワーのもとで博士論文に取り組んだ。論文は優等で審査に通り、1929年にはチェスの理論を直観主義の観点から論じたドイツ語の論文も発表した。同じころカロリナ・エリザベス・ベルフマンと結婚し、3人の娘が生まれた。そのうちの一人、カロリーネ・エーヴェは、のちに児童文学の作家になった。
チェスでは、1920年代から自分より強い相手との対戦を重ね、国内の頂点に立ち続けた。1921年から1935年まで、途切れずにオランダ王者であり、生涯で12回その座に就いた。1928年にはハーグで、夏季オリンピックの余興として行われたアマチュアの世界選手権に優勝した。英国ヘイスティングスの国際大会でも3度優勝した。ベルンやチューリッヒの大会で2位に入り、当時の世界王者アレヒンの挑戦者として自然な存在となった。
1935年、世界王者アレクサンドル・アレヒンとの対戦に挑んだ。最初の7局でアレヒンが4勝1敗2分けと先行したが、エーワは徐々に追い、最終的に15.5対14.5で勝って、約80日、30局に及ぶ戦いに勝利した。この対戦でもっとも有名な一局は、「ザントフォールトの真珠」と呼ばれる。この勝利でオランダにチェスの熱狂が起こり、多くのクラブが創設された。しかし2年後の1937年のリターンマッチでは、9.5対15.5で敗れ、王者の座を失った。アレヒンの不調が、1935年の敗北の一因だったという見方がある。
1941年にはボゴリュボフに6.5対3.5で勝った。1948年にアレヒンの死で世界王者の座が空位になると、ボトヴィニク、スミスロフ、ケレス、レシェフスキーとの5人の決定戦に臨んだが、最下位に終わった。公認会計士、航空パイロット、ハーグ大学の数学部長、北大西洋条約機構のコンピュータ部長など多くの資格や肩書きを持ち、学生時代は水泳とボクシングの選手でもあった。世界王者の中でも異例のアマチュアで通したことで知られ、1957年にはボビー・フィッシャーとのエキシビション・マッチに1.5対0.5で勝った。チェスの本を数多く書き、世界中で訳された定跡の書や、月刊の定跡雑誌も創刊した。1970年から1978年まで国際チェス連盟の会長を務め、1981年11月26日、アムステルダムで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ガイ・バトラー (1981年没)
- ヘルマン・エッサー (1981年没)
- カール・ベーム (1981年没)
- マルタ・ロバン (1981年没)
- ロバート・エイクマン (1981年没)
同じ地域に関係する人物
- ルドルフ・バックホイゼン (1708年没)
- ユディト・レイステル (1660年没)
- ヤーコプ・オフテルフェルト (1682年没)
- Louis De Geer (1652年没)
- ラムセス・シャフィー (2009年没)