伝記
カール・デーニッツは、1891年9月16日、ベルリン近郊で、カール・ツァイス社の技師だった父エミールと母アンナの子として生まれたドイツの海軍軍人である。母はカールが4歳のときに亡くなり、父が男手ひとつで、デーニッツを含む二人の息子を育てた。「皇帝と祖国に仕えることが第一の義務であり、個人の幸福など瑣末なことに過ぎない」というプロイセン的な規律が、家の教育方針だった。1910年4月1日にフレンスブルクの海軍兵学校に入り、1912年に父を亡くしたあとは、父に代わる偶像として、上官のレーヴェンフェルト大尉を尊敬した。同年、小型巡洋艦ブレスラウの士官候補生となった。
この艦で第一次世界大戦を迎え、地中海の港に停泊を続けるうちに、潜水艦に関心を持った。1917年1月に潜水艦当直士官課程を終えて、潜水艦に勤務し、1918年には潜水艦UB-86の艦長となったが、10月に艦が潜航中に航行不能となって急浮上したところを、イギリス軍に捕らえられた。潜水艦の艦長は絞首刑になるという噂を聞いて、発狂したふりをし、1919年に本国へ送還された。戦後も海軍に残ったが、ヴェルサイユ条約で潜水艦の保有が禁じられたため、水上艦艇に勤務した。その間に日本などを遠洋航海で訪れ、アメリカに行けなかったことを後に悔やんでいる。1934年に軽巡洋艦エムデンの艦長となり、1935年にヒトラーが再軍備を宣言すると、再建される潜水艦部隊の司令長官に任命された。
1936年1月1日以降、潜水艦部隊を指揮した。開戦時の潜水艦は57隻で、大西洋に出せるのは26隻にすぎず、最低300隻は必要だと表明していたデーニッツは、「また英国と戦争をせねばならんとは」と嘆いたという。開戦直後から魚雷の信管が早期爆発を繰り返し、ノルウェー攻略では、42隻を英艦隊の予想進撃路に配置したがほとんど成果が上がらなかった。魚雷の問題が技術的に解決されたのは1940年の夏である。1940年8月にドイツが対封鎖宣言を行い、無警告での商船の撃沈が違法ではなくなると、船団を狙うため、1隻が発見した敵船団を近くの味方に知らせて一斉に襲う群狼作戦を考案した。英軍の護衛戦術が変わる1943年春まで、戦果は増え続けた。
1943年1月30日にレーダー元帥の後任として海軍総司令官となり、元帥に昇進した。大型艦の廃艦を求めるヒトラーに、一部を撤回させたのもこのころである。だが英軍が逆探知装置を開発し、デーニッツはその能力に遅くまで気づかなかったため、潜水艦の被害は拡大した。1943年5月に次男ペーターが、1944年5月には長男クラウスが戦死している。1945年1月から終戦までは、難民や兵士をソ連軍の包囲が開いている海上からデンマークや本国へ運ぶハンニバル作戦を行い、4月25日にはベルリン防衛のため1万人以上の水兵を派遣していた。1945年4月30日、ヒトラーの遺書で後継者に指名され、5月1日にその死を国民に公表した。大統領に就任して最後の政府を率い、連合国への無条件降伏を行った。ヒムラーは5月6日に放逐した。1980年12月24日に死去した。
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