HISTORICAL PERSON · 1980年没

アレホ・カルペンティエル

キューバの小説家・ジャーナリスト・音楽評論家。独裁者マチャードを批判して投獄され、のち亡命した。20世紀のラテンアメリカ文学に大きな影響を与えた。

生涯
1980年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 7区)
出生地
スイス連邦(ローザンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アレホ・カルペンティエルは、1904年12月26日にスイスのローザンヌで生まれ、1980年4月24日にパリで没したキューバの小説家・ジャーナリスト・音楽評論家である。20世紀のラテンアメリカ文学に大きな影響を与えた。

長いあいだ、生まれてすぐに家族が移ったハバナの生まれと思われていたが、死後にスイスで出生証明書が見つかり、ローザンヌ生まれと分かった。父はフランス人の建築家、母はロシア系の語学教師である。父はヨーロッパの退廃を逃れ、若い国で暮らしたいと望んで、一家はハバナへ移った。カルペンティエルはキューバの白人や黒人の農民と身近に接して育ち、その貧しい暮らしは、のちに作品に描かれた。十一歳から十七歳のころまでは、両親が教育を担い、父が文学を、母が音楽を教えた。そのころ父が家族を去り、カルペンティエルも学業を離れて、母を助けるために働き始めたという。パリで中等教育の一部を修めて音楽理論を学び、自ら「まずまずのピアニスト」と語っている。のちにハバナ大学で建築学を学んだが、中退した。

1921年にジャーナリストとしての経歴を歩み始め、そのままほぼ生涯の仕事とした。やがて左翼のジャーナリストとして、当時キューバを独裁していたヘラルド・マチャードを非難し、1927年にはマニフェストへの署名のために共産主義の思想を理由とした容疑で投獄された。1928年にフランスへ亡命し、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンらシュルレアリスムの作家たちと交友した。1933年に処女作『エクエ・ヤンバ・オ』を刊行している。フランス滞在中にはたびたびスペインを訪れ、バロック文化への関心を高めた。画家の藤田嗣治とも親交を結び、1931年にキューバへ夫妻を招いたと伝わる。帰国後はジャーナリストとして活躍し、ブードゥー教の儀式に出席して、アフロ・キューバン主義に関心を持った。

1943年に演出家ルイ・ジューヴェとともにハイチを訪れ、19世紀の黒人王アンリ・クリストフが建てたシタデルの砦とサン=スーシ宮殿を見学した。このときオスヴァルト・シュペングラーの著作を読み、その循環史観から『この世の王国』(1949年)の着想を得たという。1945年からはバティスタ政権の干渉を受けてベネズエラに住んだ。1959年のキューバ革命の後に帰国し、カストロ政権のもとで文化活動の指導者として大御所的な存在となる。1968年以降は文化担当官としてパリに住んだ。

ハイチの黒人奴隷の反乱を描いた『この世の王国』と、近代から未開へと時間が逆行する不思議な音楽家の旅を描いた『失われた足跡』(1953年)で世界的な名声を得て、魔術的リアリズムの旗手と呼ばれた。ほかに『光の世紀』(1962年)、『バロック協奏曲』(1974年)、『春の祭典』(1978年)、『ハープと影』(1979年)などがある。ボルヘスやアストゥリアスらと並び、現代ラテンアメリカ文学の先駆的な役割を果たした。ラテン音楽にも造詣が深く、音楽についてのエッセイ集も刊行している。1978年にはスペイン語圏で最高の文学賞とされるセルバンテス賞を受賞し、2000年にはキューバで、彼の名を冠したカルペンティエル文学賞が創設された。

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