HISTORICAL PERSON · 1527年没

ニッコロ・マキャヴェッリ

フィレンツェ共和国の外交官で政治思想家。『君主論』や『ディスコルシ』を著し、政治を宗教や道徳から切り離して考える現実主義的な政治理論を打ち立てた。

生涯
1527年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / Sant'Andrea in Percussina)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

ニッコロ・マキャヴェッリは、1469年5月3日に生まれたイタリア・ルネサンス期の政治思想家で、フィレンツェ共和国の外交官である。父は法律家のベルナルド、母はバルトロメーア・ネッリで、その3人目の子だった。家はフィレンツェ共和国の要職を何人か出した名家だが、父の年収は110フィオリーノで、中流ではあっても裕福ではなかった。本人は後年、「私は貧しく生まれた。だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と記している。ローマ・ギリシャの古典やラテン語を学んで育ち、その青少年期は、大ロレンツォの独裁、1494年のメディチ家追放、1498年のサヴォナローラの失脚と処刑といった、共和国の激動期と重なっている。

1498年5月18日にピエロ・ソデリーニ政権の第2書記局官に選ばれ、すぐに書記長となった。7月には「自由と平和のための十人委員会」の秘書官にも任じられた。1499年からのピサ攻略では、傭兵隊長ヴィテッリが軍を撤退させて計画が崩れ、ヴィテッリは反逆罪などで処刑された。1500年のピサ戦役には軍事顧問の副官として参加したが、同盟を結んだフランス王の援軍は命令を聞かず、示威行為に付き合わされ、周辺を略奪して、7月にはスイス兵も引き払った。フランス王は一方的に同盟の破棄を宣言し、彼は共和国の副使として弁明のためフランスへ赴いた。のちの「自国の軍を持つ必要性」の主張は、この年の経験に基づくとされる。各国の為政者や古典の歴史上の人物を見聞きするなかで、権謀術数に長けた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。

彼は傭兵に頼らない軍事力こそ国の根源だと確信し、国民軍の創設を計画して実現させたが、期待された成果を挙げないまま、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家の復権を支援するスペインの前に屈服し、彼は第2書記局長の職を解かれた。1513年2月にはボスコリ事件に加わった容疑で指名手配され、19日に自ら出頭して逮捕され、地下牢で縄に吊るされる拷問を6回受けた。3月にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選ばれた大赦で釈放されたが、年収の10年分にあたる金額を友人3人に借りて支払った。43歳で隠遁を余儀なくされ、家族7人でサンタンドレアの山荘に移り、昼は農業や近所の庶民との賭け事、夜は読書と執筆に明け暮れた。1513年12月10日の友人ヴェットーリ宛の手紙には、夜に官服に着替えて『君主論』をまとめていることが綴られ、イタリア文学史上最も美しい手紙の一つとされる。

『君主論』は、ロレンツォ・デ・メディチに献上された。君主が権力を維持し政治を安定させる方法を説き、運命(フォルトゥーナ)を引き寄せるだけの技量(ヴィルトゥ)が君主には必要だとし、チェーザレ・ボルジアを例に、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例に、偉大な国家を作る原則を立てた。彼は「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人への書簡に記した。1520年の反メディチの陰謀のあとも、ジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)は彼を咎めず、著作の執筆を依頼した。しかし1527年5月6日のローマ略奪でメディチ家が追放されると、彼も政権から追われ、共和制支持派からは裏切り者と、別の者からは狡猾者と非難され、失意のうちに病を得て、6月21日に急死した。

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