伝記
ヨーゼフ・メンゲレは、1911年3月16日にドイツ南部バイエルン王国のギュンツブルクで、裕福な農業機械工場の経営者カール・メンゲレと妻ワルブルガの間に、3人息子の長男として生まれた。弟にカールとアロイスがいた。ミュンヘン大学、ウィーン大学、ボン大学で遺伝学、医学、人類学を学び、1935年に下顎の構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号を得た。1937年にはフランクフルト大学で、指導教官のオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーの助手として遺伝生物学と民族衛生学を研究し、1938年には口唇口蓋裂の家系調査の研究で医学博士号を取得した。
1931年、20歳のときに、ヴァイマル共和国に反対する右翼団体の鉄兜団に加わった。同団体は1933年のナチ党の政権獲得後に突撃隊に吸収され、彼は健康上の問題を理由に退団したが、1937年にナチ党に入党し、1938年に親衛隊に入った。1939年に最初の妻イレーネと結婚して息子ロルフをもうけ、1940年に武装親衛隊に志願した。軍医として第5親衛隊装甲師団「ヴィーキング」に配属され、東部戦線に従軍して1942年に負傷し、鉄十字章などを授与された。1943年4月20日に親衛隊大尉に昇進し、同年5月30日にアウシュヴィッツ強制収容所に配属された。
アウシュヴィッツには1945年1月17日までの21か月間勤務し、「死の天使」とも渾名された。囚人を乗せた貨車が到着すると、プラットフォームに立ち、降りてくる囚人のうち誰が労働と実験に役立ち、誰がガス室に送られるべきかを選別した。親衛隊の制服と白手袋を着け、クラシック音楽の指揮者のように作業にあたったと伝えられ、見た人々から恐れられていた。人体実験の対象とした囚人を「モルモット」と呼び、致命的な外傷を与える実験などを繰り返した。双子に特別な関心を持ち、実験は1944年に始まって、助手が到着した囚人の中から双子を探して集めた。実験のほとんどは倫理を無視したもので、子供の目に化学薬品を注入して瞳の色を変えようとするなど、残忍な外科手術も行われた。実験を生き延びた囚人も、多くは解剖されて殺された。
1945年1月、ソ連赤軍が収容所を解放する直前に、グロース・ローゼン強制収容所へ移った。ドイツの敗戦後は兵士になりすましてアメリカ軍の捕虜となったが、親衛隊員が腕に彫る血液型の入れ墨がなかったため、そのまま釈放された。バイエルンの農家で偽名を使って働いた。1949年、元ナチ党員の多くとともにアルゼンチンへ逃れ、ブエノスアイレスで暮らして、母国の家族の支えで薬品会社の共同経営者となった。1954年にイレーネと離婚し、1958年に弟カールの未亡人マルタと再婚した。1960年にアドルフ・アイヒマンが逮捕されると、追及を逃れるために南米諸国を転々とした。パラグアイとブラジルで暮らしたが、ドイツ、イスラエルなどの追及を受け続け、逮捕されることなく戦後35年を生き延びた。1964年初頭には、フランクフルト大学とミュンヘン大学が、ヒポクラテスの誓いを破り、アウシュヴィッツで殺人を犯したことを理由に、彼の博士号を取り消した。
1979年2月7日、サンパウロ州の海岸で海水浴中に脳卒中を起こし、67歳で死去した。遺体は火葬され、ブラジル政府が保管している。1992年、遺骨のDNA鑑定で本人と確認された。
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